日本人は過去150年の経験を生かし切れてない 苅谷剛彦さんが語る「知に対する謙虚さ」の意味

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苅谷剛彦さんの著書『追いついた近代 消えた近代 戦後日本の自己像と教育』(苅谷剛彦/岩波書店)(撮影:間部 百合)

苅谷:外から理想を持ってきて、日本人にはこれが足りないから、これをやらなくてはならないという論法を続けてきた今までの教育政策というのは、これまでの言い方をするならば、「謙虚さ」に欠けていたと思います。知に対して謙虚であることによって、自分たちがこれまでの歴史の中で行ってきたことに向き合い、そこから取り出すことができる「内部の参照点」を見つけられるはずです。

須賀:なるほど。私たちはそのような知的財産をまったく活かしきれていません。

「内部の参照点」に立ち返れ

苅谷:日本は近代化の歴史の中で、海外の技術や考え方を取り入れながら、ハイブリッドな近代を作り出してきました。100年前まで遡らなくても、2011年には東日本大震災を経験しています。これらの経験を「内部の参照点」として、今、私たちに必要な知識とは何かと考えることが重要なのではないでしょうか。

欧米の有名な学者たちの文献に注目し、昔のドイツやフランスやイギリスやアメリカが何をしたかということを理解し、それらを日本語で紹介したとしても、それは、自分たちの「内部の参照点」にはなかなかなりえません。その点で100年前に内務省の保健局が出した報告書は、私たちが今回の感染症を考えるうえでの「内部の参照点」になりえます。

知の生産や再生産といったことは、私たちの「知に対する謙虚さ」がベースにあり、私たちがこれまでの歴史の中で、作り出してきた事柄をどう理解するのかということに出発点があると思っています。世界中の誰も、過去を完全に切り離して、真水からまったく新しい何かを作り出すということはできません。私は、このことを「経路依存性Path Dependency」と理解していますが、現在や未来のことを考えるにしても、世界との交流を含めた、自分たちの作り出してきた過去の経験に立ち返るということが必ず重要になります。

須賀:まさにそう思います。苅谷さんの答えはとても内向きに聞こえる一方で、自分たちの連続性の中から取り出したインサイトや経験、問いといったものが、結局は、普遍への第一歩であり、グローバルにもつながりうる知見なのだと感じました。

苅谷:はい。まさに今ご指摘いただいたように、下手をすると非常にわかりやすいナショナリズムに回収されてしまう危険性もあります。今回、本を書く過程で、いろいろな国の近代化に関する知識を集めました。例えば、エチオピアはアフリカの中で最も古いキリスト教国で、ヨーロッパから一定の独立を保ちながら、近代化を成し遂げようとした国ですが、エチオピアが近代化に向かう過程で、決して主流派ではありませんでしたが、日本の近代化から学ぼうとした人たちがいたんです。

そういった経験についてお話しすると、日本回帰しようとする人は、「日本は素晴らしい」という言説に向かってしまいますが、そういったことを言いたいわけではなく、ほかの非ヨーロッパの独立国が、日本をどう見ていたのか、日本の経験自体をどう捉えていたのか、その経験とは何だったのかということをきちんと見据えるということが、「内部の参照点」を探すうえで、とても重要になるんです。

須賀:非常に慎重な態度が求められるわけですね。

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