日本人は過去150年の経験を生かし切れてない 苅谷剛彦さんが語る「知に対する謙虚さ」の意味

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苅谷剛彦さんの新著『コロナ後の教育へ:オックスフォードからの提唱』(苅谷剛彦/中公新書ラクレ)(撮影:間部 百合)

苅谷:『流行性感冒』のレポートは、学者だけの抽象的な議論ではなく、私たちの生活に直結する問題を提起しています。私は、この、特定の立場に立たないフェアネスを「知に対する謙虚さ」とパラフレーズしましたが、一般の人たちが読むことを前提とした報告書の中で、このようなフェアネスを示すということは、ある種の「知に対する謙虚さ」を表していることでもあると思います。

私たちは、それぞれの場面で決断を下さなくてはなりませんが、社会には、唯一のベストな選択肢というものは存在しません。ですが、自分たちで情報を集め、それらを組み合わせる中で、少しでもベターな判断をすることはできます。そして、多元的な見方で、多様なベターな選択肢の中から、さらにベターな選択肢は何なのかと考えることが、「知に対する謙虚さ」だと思います。

マルチボーカルから、モノボーカルへ

須賀:そのような態度を可能にすることこそが、教育の役割だということでしょうか?

苅谷:はい。まさしく、そのような判断を下すための知性というものを人類は作り出してきたのだと思います。このような「知に対する謙虚さ」が、今から100年前、明治維新から、わずか半世紀ほどしか経っていない日本で提出された報告書の中に示されていたということこそ、私が1回目の近代化と位置付ける、「追い付き型近代」のキャッチアップの中で、日本がある種の高みに到達したということを表しているのではないかと思います。

明治維新から大正を経て、昭和初期にそのような知的にフェアな状態が許された背景には、日本がこの時期に、ある種の近代化の水準に到達したことがあると思いますが、その後、1930年代になると、軍部の影響力が強くなり、言論が統制され、フェアネスは失われてしまいます。日本全体が多声的な状態から単声的な状態へと変わってしまうんです。

須賀:マルチボーカルだったものが、モノボーカルになってしまうんですね。

苅谷:はい。ですから、どのような人を育てるべきかというご質問に立ち返えれば、「知に対する謙虚さ」をベースに、教育の目的、ゴールは何なのかを問うことから議論をスタートしなくてはならないと思います。目的、ゴールのない空理空論から、理想を立てるのではない。拙著『追いついた近代 消えた近代』の中では「内部の参照点」という言葉を使いましたが、日本の近代の150年以上の歴史の中で、私たちがやってきたことを知的財産として使い、そういったことから得られるゴールセッティングが必要になります。

次ページ外から理想を持ってきた教育政策は「謙虚さ」に欠けていた
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