日本人は過去150年の経験を生かし切れてない 苅谷剛彦さんが語る「知に対する謙虚さ」の意味

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須賀:まさに今、世界中が同時に試されているような状況を迎えていると思いますが、このような状況下において、日本政府はどのような強みと弱みを見せていると感じていらっしゃいますか?

苅谷:現在、私たちが直面していることは、不可知で、未知なことであり、正解というものが何十年後かに、初めてわかってくるような出来事です。その渦中にあるわれわれは、答えのない試験を受けさせられているような状況にあると思います。死亡者数が増えていることや医療崩壊が起きつつあると言われる状況に関しても、現在の政府が行う政策や判断に加えて、これまでの政府が積み上げてきた公的サービスへの予算カットや医療サービスの合理化など、何十年もの間、蓄積されてきたさまざまな政策が積み重なって起きています。

ただ、選挙を迎えれば、私たちは現政権が行ってきたことに対して評価せざるをえません。それは膨大な情報の中から、さまざまなレイヤーにまたがる知識や情報を組みわせて、判断を下すことですから、それには非常に高度な知的作業が求められます。

議論に「白黒」をつけようとしない

このような複雑かつ高度な知的作業が求められる状況では、人々はかえって、明快な答えを求めたがり、政治も明快な答えを与えたがります。そのようなことが起こると、白黒はっきりと、賛成か反対かという単純化された政治的な問いの立てられ方がされます。本来、複雑で、不可知であるはずの要素がたくさん含まれていることに対しても、ハッキリとどちらかの立場に立たせようとすることが起きます。そのような中で政治が行われるということは非常に難しい、そして危うい状況だと言えます。

苅谷剛彦(かりや・たけひこ) ノースウェスタン大学で博士号取得(社会学)。東京大学教育学部教授を経て、2008年よりオックスフォード大学社会学科およびニッサン現代日本研究所教授。専門は社会学、現代日本社会論。主な著書に『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『階級化日本と教育危機』(有信堂高文社、大佛次郎論壇賞奨励賞)、『教育の世紀』(弘文堂=ちくま学芸文庫増補版、サントリー学芸賞)、『教育と平等』(中公新書)、『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店、毎日出版文化賞)、近刊に『コロナ後の教育へ:オックスフォードからの提唱』(中公新書ラクレ)(写真:本人提供)

須賀:特定の人々に対して非常によく響く、単純化された、耳聞こえのよいメッセージが、社会を分断するような形で表出することは、アメリカ大統領選などを見ても明らかですね。

苅谷:はい。ですから、日本の政府をどう見るかということについては、現時点では明確な答えがないとしか言えないのではないかと思います。ですが、もし、選挙があれば、私たちはどの政党に投票するかという判断を下すことで、政府を評価するわけで、その場面では、不確定性の高い中でも必ず決断することを求められます。

これは選挙のときだけでなく、普段の生活の中でも起こりうることです。例えば、GoToトラベルやGoToイートといった政策についても、自分がそれを利用するかどうかといったことは、投票とは関係なくても、利用するかどうかということが政策への賛否を表します。

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