僕は還暦を迎えたパーティの席で、「これからは文学原論を究めるために作家に専念する」とあいさつしました。それまで引き受けていた博覧会のプロデューサーや諸々の委員、社長業などからすべて自由になると決めたのです。
実はその40年前、プロの作家としてデビューする前の同人誌で、「文学の科学を確立しなければならない」と宣言していました。小説家の高橋和巳らと一緒に作った同人誌です。当時から文学の本質を定義づける必要があると思っていたのです。
しかし40年間作家をやってきても「文学とは何か」を定義づけるまでに至っていませんでした。
先日のバンクーバー五輪のフィギュアスケートでは、浅田真央さんがキム・ヨナさんに負けました。僕にはその理由がよくわからなかった。真央さんのほうが人間として華があると感じた。「華」というあいまいなものに対してフィギュアスケートはきちんと評価する基準を持っているものと思っていましたが、文学の定義づけと同様、現実にはなかなか難しいようです。
文学も科学も共有できる世界がある
「文学とは何か」と追究していく中で気がついたことは、「物語性」です。ストーリーはヒストリー(歴史)と同じ語源で、「調べる」「尋ねる」という意味がありますが、「うそ」「作り話」という意味もあります。人間は言葉を使い始めたときから、「物語」を作り続けてきたのではないでしょうか。それが口承文学として語り継がれ、神話や説話、歴史になってきたのではないでしょうか。その頃の「物語」は、あらゆるイメージの総体として「哲学」と言ってもよかったかもしれません。それがある時期から「科学」と「文学」に分かれてきたのです。
僕がSFに惹かれたのは、そうした「文学」と「科学」を、もう一度、「哲学」に一体化できるかもしれない、という気がしたからです。
科学の世界には「虚数」という概念があります。英語で言うと「イマジナリーナンバー」です。そうです。科学の世界でも「イメージ」することは大切なのです。文学も科学も共有できる世界があるのです。
僕はいろいろな先端科学者と交流してきましたが、彼らの多くは実に人間的で、SF作家もビックリするくらいとんでもない発想をします。
科学者が解明した世界から物語を編み出すと同時に、「美」や「愛」といった、数式では表現できない世界を文章で表現することによって、逆に新しい科学のイメージが広がるかもしれない、と思っています。
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