古都の情景を描く「万葉集」に込められた想い 現代社会を生きる私たちへのヒントになる
万葉集は、265首の長歌・4200余首の短歌・62首の旋頭歌、あわせて全4500余首を20巻に構成した撰歌集である。そして、大半の歌が雑歌・相聞・挽歌・譬喩歌の4種に大別されている。
万葉集では、相聞・挽歌・譬喩歌のほかは、もろもろの歌のすべてが総称として「雑歌」とよばれる。巻第1は雑歌のみ、長歌16首・短歌68首を収めている。本稿ではその中から、一部を抜粋する。
作者は額田王。斉明天皇7年(661)1月、伊予(愛媛県)の石湯でこの歌は詠まれた。
歌意を
―熟田の港(津)に碇泊する御座船に乗ろうと月の出を待つうち、月ものぼり潮も満ちてきました。さァ、皆さん、乗船を急いで、今こそ博多へむかい、漕ぎ出してもらいましょう―
と汲む。
石湯は現在の道後温泉。熟田津は大和朝廷が営んでいた石湯の行宮(御用邸)の玄関口にあたる海岸であった。額田王は斉明女帝の側近で、宮廷儀礼歌を詠み、ときに天皇の御詠の代作をもした、万葉第1期の最初の専門女流歌人。一首は推定27歳で詠まれている。
国情は安定していなかった
この当時、唐・新羅から迫害をうける百済が大和朝廷に救援を請うていた。中大兄皇子が山陽道に援軍の兵士を徴して博多に集結しようとしており、斉明女帝の一行も兵士たちを激励せんがために御座船で難波津を出帆、途中、石湯にしばらくの逗留となった。
ちなみに、36代孝徳天皇のもと、中大兄による大化の改新がおこなわれ、それから16年が経過しているのだが、国情は安定したとはいえない。それゆえか、御座船には大海人皇子をはじめ多数の皇族も同乗していた。
34代舒明天皇を父に、宝皇女(35代皇極天皇・37代斉明天皇)を母に生まれたのが、中大兄(38代天智天皇)と大海人(40代天武天皇)である。36代の孝徳帝は宝皇女の同母弟。
舒明帝の崩御後、宝皇女が皇極帝として践祚したのも、同母弟に譲位したのも、さらに斉明帝として重祚したのも、いずれも中大兄のもとに皇権を固めんがための対処であった。
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