古都の情景を描く「万葉集」に込められた想い 現代社会を生きる私たちへのヒントになる
この歌には朝鮮半島へむかう大船団の出陣を鼓舞して詠まれたとみる解釈がある。私は熟田津に碇泊していたのは、大勢の漕ぎ手を要する御座船一隻と、護衛の小船数艇であったとみたい。
「熟田津」という海岸の位置は確定されていないが、道後温泉に近い海辺一帯は現在もかなり沖まで遠浅だそうである。御座船は沖に碇泊、それでも潮が引いて吃水が浅いと櫓は漕げない。
ようやく月の出とともに潮が満ちはじめ、船体が浮いてきた。「出航のときがきたようですね。一同の気分をひきしめる一首を詠んでくれますか」。女帝の懇請によって、船出の儀式とともに、この作は朗詠されたのではなかったろうか。
作者は中大兄皇子。この長歌は額田王の前首に先立って、播磨(兵庫県)で詠まれている。
―香具山は畝傍山をわがものにしようとして耳成山と争奪した。互いの鬩ぎ合いは神代の昔からあったらしい。過去もそうであるから、今この世に生きる人間も、妻を取り合う争いをまでするわけさ―。
香具山は天香具山と呼ばれていた
大和朝廷が緒に就いたのは、香具山・耳成山・畝傍山、この大和三山に囲まれる飛鳥の盆地であった。「神武紀」の記すところを私は鵜吞みにしようとは思わないが、磐余彦命(神武天皇)の一団は、熊野から吉野へ、さらに丹生・宇陀・忍坂を経て香具山に立ち、飛鳥盆地を初めて望見したという。つまり、東南から北上、東から接近したことになる。
悠久の上代、竪穴に生活する先住民(地祇系)が大和にも散在していたろう。そこへ高床を住居とする渡来民(天孫系)が闖入したのである。磐余彦の一団は先住の地祇系がもたない鉄を製する技術を有していた。
石の槍先は銅刀に割られ、銅刀は鉄剣に折られる。鉄の農具は木の農具では浅くしか掘れない原野を深く耕せる。渡来した一団はさらに、土器づくりにおいても優れた技量をみせた。
集団の長が丘や高所に立って外敵の闖入がないかを見張り、周囲に暮らす同族の安全に目を配る行為を「国見」という。
香具山は天香具山とよばれて、天孫系の長、磐余彦の国見をする山となった。磐余彦はこの山の麓から採掘する埴(黄土)で皿鉢・酒瓶などを焼かせ、盆地周辺の先住民にもふるまったらしい。こうして、少数の一団といえども、天孫系は鬩ぎ合いの末に盆地に先住する地祇系の住民を掌握しえたのである。
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