末期がん妻が新聞記者の夫に遺した意外なもの 50代夫婦、2人暮らしの涙と笑いの奮闘記

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翌日、病院に行くと、主治医は「リンパの流れと逆だから、転移の可能性は低い」と言ったが、12月の検査でリンパ節への転移が判明した。2カ月後には肝臓への転移も見つかった。妻は、「20年、私は幸せだったと思う。結婚20年は来年やけど、ちょっと早めに帝国ホテルで写真撮ろうよ」と言った。僕は涙をこらえるのに必死だった。

妻の肝臓への転移を告げられて、僕の心の堤防は崩れてしまった。街を歩いていても10分に一度は涙があふれてくる。そんなとき、病理学の専門家である樋野興夫(ひのおきお)さんが書いた『がん哲学外来へようこそ』(新潮新書)の、いくつかの言葉が印象に残った。

「やるだけのことはやって、あとのことは心の中でそっと心配しておればよい。どうせなるようにしかならないよ」「他人との比較を離れ、自分の品性と役割に目覚めると、明日死ぬとしても、今日花に水をやる、という希望の心が生まれてきます」……

大阪にも、「哲学外来」を受け付ける診療所があるという。大阪府守口市の住宅街にある東英子医師のクリニックを訪ねた。「妻がメラノーマと診断されて以来、最悪の事態を事前に予測して備え、妻を支えようとしてきた。でも肝臓転移が見つかって心が崩れてしまった……」。経緯を説明するだけで涙があふれる。

家族のほうがパニックになることはよくある

東さんはしばらく僕の話を聴いたあと、こんな話をしてくれた。「患者さん本人よりご家族のほうがパニックになってしまうことはよくあります」「患者さんが病気を受けとめられることもあれば、楽観的すぎるように見えることもある。日によって変わる。それに寄り添ってあげたらよい」。

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「日々を大事にしよう、などと言うと『死の準備みたいでいやや』と言われてしまう」と僕が言うと、「言葉を聴くことはできるけど、何かを言うのはとても難しい。相手の言ったことの一部を繰り返すというのはひとつのやりかたです」。

1時間ちょっと話を聞いてもらった。何らかの解決策が示されたわけではないが、泣きながら話すうちにちょっとだけ心が落ち着いた。

帰途、自宅までの4キロを歩く間は涙を流さずにすんだ。人前で泣いて話せるって大事なことなのだ。妻はしょっちゅうべそをかくけれど、だからこそ感性がしなやかで僕よりも強いのかもしれない。

哲学外来のことは妻には話さなかったが、帰宅すると「きょうは表情が明るいな」と笑った。

料理指導がはじまって4カ月間は「おまえに魚を料理させたら台所が臭くなる」と魚は扱わなかった。ところが肝臓転移がわかってすぐ、スーパーの魚屋で僕の目を見て「イワシの梅煮(※レシピ2)をつくってみ」と妻は言った。僕の好物だ。

「臭くなるからまな板は使うな。魚はポリ袋のなかでさばくこと」。頭をはずし、はらわたをかきだすと「力を入れ過ぎたら身が崩れる!」。流水で腹の内部を洗おうとしたら「あーあ、うま味が流れてまう」と相変わらずの鬼コーチぶり。小型フライパンで、梅干しとショウガといっしょに火にかけた。梅干しとショウガがイワシの臭みを打ち消して、熱燗にぴったりのおかずになった。

料理の教えを乞うたのは妻の負担を減らすためだった。でも妻は、本気で僕に料理をたたき込もうとしていた。煮魚を必死に教える姿を見て、その覚悟に気づかされた。けれども、妻が料理を教えてくれた本当の理由がわかるのは、それからずっと後のことだった。(後編に続く)

次ページ料理のレシピ1、2を紹介
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