「武漢日記」が刻む「ちゃんと怒る」行為の重み 「しつこく覚えておく」ことがいちばん重要だ

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そのうえで、私たちは従うか、異議を唱えるか、自ら選んで声を発することができるのだけど、常に曖昧なことをやられるから、異議を申し立てるのではなく、中途半端に受け入れてしまう。それこそが狙いなのでしょうが、突っ込みにくい。この本を読んだうえで、中国社会に親しみを覚えることはしないですが、方方さんの、あからさまな権力に突っ込んでいくというストロングスタイル、この言論の在り方というのはたくましいですね。

飯塚:中国のおかしなところはおかしいと言わなきゃいけないんですが、一方で参考になるところもたくさんあります。例えば、われわれはコロナ禍の中で、これからどうしていったらいいのか。やはり自分の身は自分で守らなければならない、ということをだんだん感じるようになってきました。誰も救ってくれません。『自助、共助、公助』の自助が最初に来る国ですから、自ら助けないとどうにもならない、そういうことなのかな、と思います。

日記は思考の変遷がダダ漏れになる

武田:「常識」という言葉が中盤で重要な言葉として出てきます。「常識とはとりわけ深刻なものである」など、印象的でした。内心でうごめいている感情、そして今、目の前で起きている現状を描写していく。読みものとしてとても没入させられました。日本でも、3・11のときに「震災文学」なんて言われかたがあり、それは書いた側がそう意識したというより、外側からくくったという感じでしたが、このコロナ禍で、国内外問わず、物書き、とりわけ小説家の人たちがどういう作品を残していくのかが気になります。

飯塚:『武漢日記』のようなルポルタージュ、記録文学はすぐに出てくると思いますが、こういう体験が小説などになって結実するには、かなりの時間を要するでしょうね。やはり、すぐには受け止めきれないですから。

武田:日本でもこのコロナ禍を綴った日記本がいくつか出ています。日記の場合、月曜日と金曜日で考え方が変わっていて、その思考の変遷がダダ漏れになる、という面白さがあって、だからこそ、今、書かれて読まれている。ただ方方さんの場合は、変化があるというよりも、どんどん層が厚くなってくる感じがあって、そこに読み物としての強度がある。本になる前にネットで見ていた人、更新を待ち構えていた人にとっては、本当に大きな勇気になったんだろうと思います。

飯塚:確かに空気感が伝わってきます。武漢のなかでも封鎖が行われた当初と、封鎖が長期化して、いつ解除されるかわからない状況になってきた頃で、人々の反応や考え方も変わってくる、そういう雰囲気がわかるという意味でも貴重な記録です。

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