人がものを食べるのは、単に空腹を満たすためだけではない。もっと別のものも満たしている。だから食べることには「おいしい」とか「おいしくない」といった余分なものがくっついてくる。どうしてそんな面倒なことになっているのかわからない。わかっているのは、スマホを相手に1人で食べるよりも、好きな人と一緒に食べるほうがおいしいということだ。これを「錯覚」や「気のせい」と言ってしまえば、それこそ人生は味気ないものになる。
ジョブズの生涯には「味わう」という体験が希薄だった。とくに「ともに味わう」という契機は、ほとんど皆無だったように見える。その彼が最後に、自分の人生を味わっている。残り少ない命を味わっている。家族とともに、パートナーとともに。「おいしい」とか「おいしくない」とか言っている。なぜ「おいしい」のか? なぜ「おいしくない」のか? ともに味わわれるからだ。それが分け持たれる命であるからだ。
クローズドしていたのは彼自身だった
きっと誰もが固有のまわり道をして、同じ所にたどり着くのだろう。自力でやれることは知れている。自分は自分から始まっていない。「この自分」は自分とは別のところから流れ下ってきている。だが、それを実感するためには、ジョブズのように自力の果てまで行ってみる必要があるのかもしれない。そこから彼は折り返してきた。いまシック・ベッドに横たわっている。
シック・ベッドからはいろんなものが見える。それまで見えなかったものが突然見えたりする。求めていたものは最初からそこにあった。いつもあり続けた。近すぎて見えなかったのかもしれない。若いころのジョブズは、自分が実の両親に棄てられたと思っていた。放棄された自分を取り戻すために、かたくなに自己であろうとした。食べ物からデザインに至るまで、自己を守り非自己を排除するための過剰な免疫システムをつくり上げた。自分たちが作る製品については、最後まで互換性のないクローズド・システムにこだわった。クローズドしていたのは彼自身だったのだ。
そんなジョブズが、最後にたどり着いた場所で自らをひらいているように見える。静かに自分を明け渡し、何かに委ね、どこかへ還っていったように見える。どんなに偉大で華やかな生も、卑小で平凡な生と変わらないことを、彼は身をもって示して死んでいった。ジョブズの偉大な卑小さは、名もなき人たちの卑小な偉大さと、つつましく釣り合っている。
〈了〉
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