「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか 歴史修正主義に対抗する「国民の物語」が必要
前川:私は網野さんほど根源的にものを考えているわけではないと思うので、「植民地になればよかった」とまでにわかに言い切ることができるかどうか……。ですが、明治以降の近代化の方向性は間違っていたということは、おそらくそのとおりだろうと思います。近代化それ自体というよりは、その方向性です。
つまり、明治以降、日本は近代化なり国際化なりの道をひたすらに歩み続けたわけですが、その果実はどう回収されたのかという問題だと思っています。それは明らかに軍国化に費やされたのではなかったでしょうか。しかも、それは帝国主義世界体制に参画するためだった。世界史の観点から言えば、それは否定しえないのではないですか。そしてその延長に戦争があったわけです。
そうした日本の姿への批判として捉えるなら、なるほど「植民地になればよかった」という表現になるのかもしれません。要するに、戦争を反省するなら、それに先立つ植民地主義の世界史と関連づけて、総体的な観点から日本の近代化に向き合わなければならないということです。そこで、欧米の近代化だって軍国化とセットじゃないかと言って済ましてはいけない。そこは批判しないといけない、というのが私の基本的な考えです。
一方、呉座さんご指摘のとおり、それを教育の場でどのように教えるのかは、非常に難しい問題だと思います。ただし、くどいようですが、明治維新であれ、第1次世界大戦後の国際協調の時代であれ、その当時の国際社会の姿というのは、きっちりと理解しておかなければならない。そこには、植民地主義を前提とした世界があったこと、それを当時の国際社会は当然のことと受け止め、欧米諸国や日本がアジアやアフリカの(公式であれ非公式であれ)植民地を当たり前のように搾取していたことは、きちんと捉え直さなくてはならないと思います。
ですから、教育の現場でも、「植民地になればよかった」と言うかどうかは別にしても、「植民地主義は間違っていた」、「そこに善などあろうはずがない」といったことは、はっきりと言わなければなりません。そういうことを率直に言えばいい。
こうすると、「現代の価値観で過去を論じるな」と、例の“歴史の不遡及”論が必ず出てくるのですが、私から言わせれば、そんなことばかりしていたら、歴史は好事家のたしなみに成り下がりますよ。もちろん、トリビアそれ自体は悪くはないのですが、その一方で、現代と過去のあいだには、評し評される、一種の緊張関係があるのだし、それを棚上げにしてはいけないと考えています。
もちろん、具体論となるとハードルはかなり高いことは理解しています。そもそも、文科省がそんなやり方を手放しで認めるはずはないでしょう。が、学知が歴史の事実を実証し、それを教育に反映する工夫はやはり必要なのだと思います。そこは揺らぎません。答えになっているかわかりませんが……。
歴史教育は「国民史の物語」
呉座:いや、参考になりました。やはり、学知と教育、歴史学と歴史教育の違いという問題に突き当たらざるをえないのだと思いました。前川さんは、歴史教育についてどのようなお考えですか。つまり、歴史教育とは何か、という質問です。
前川:大きな質問ですね。でも、あえてひとことで言うならば、歴史学と歴史教育の大きな違いは、歴史学がファクトの追求であるのに対し、歴史教育は「国民の物語」ということなのだろうと思います。
歴史を学校教育の場で語るときには、どうしても国の問題と分けて考えることはできません。日本はどのような国であったのかということを教えるのが国民史です。もちろん、その歴史の事実の部分を教育の場に提供する役割を背負っているのは歴史学です。
だからこそ、ここに呉座さんが質問された問題の所在があるわけですよね。植民地主義のファクトをどう「国民の物語」に接続するかという。
実際、そのように葛藤している現場の先生たちはたくさんおられると思うんです。ですが、現実的にはなかなか難しい。そうこうしているあいだに、歴史修正主義に付け入れられてしまったわけで、いつの間にか歴史修正主義版国民史が社会に伝播してしまった……。
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