「『本当は養子には出したくなかった』と言われて、まあそれならいいかなって。あとは遺伝性の病気がないかも気になっていたので、そこも確認しました。
あれから30年近く経ちますが、(実母が)今どうしているかは、ちょっとわかりません。1回会えば十分でしたね。産んでくれたことには素直に感謝しますけれど、そのあと育ててくれた(養母の)ほうがやっぱり大変だったろうと思うので」
この話だけでも、ずいぶん物語のある人生です。けれど莉恵子さんにとって、自分が養子であることは、ほんの一要素にすぎませんでした。というのは、彼女の人生において大きな意味をもつ出来事は、ほかにもたくさんあったからです。
自然と気にかけてくれた「親切なおばさんたち」
小2の頃、祖母とぶつかってばかりいた養母が、家を出て行ってしまいました。2人とも気が強く、似たところがあったのでしょう。だいぶ後でわかったことですが、2人とも互いにその後どうしているか心配していたようです。
それから莉恵子さんは、養父と祖父母と暮らすようになりました。養父は仕事熱心なタイプではなく、また、人にお金を貸してしまうことも多かったため、生活は厳しくなっていきます。祖父が亡くなると、祖母は親戚の家に引き取られ、中学の頃から莉恵子さんは養父と2人暮らしになりました。
ところが養父はいよいよ働かなくなり、女性の家に居ついて帰らず、莉恵子さんは大変苦労することに。隣に住む大家のおばあちゃんが家賃を催促しにくるのがつらくて、押し入れの中に隠れたり。夢中になっていた運動部は強豪でしたが、せっかく試合に勝ち進んでも、遠征の交通費がないため、莉恵子さんだけ参加できなかったり。
「(養父は)なんか憎めない人でした。世間的にはダメな人かもしれないけど、私が『怪我した』って電話すると、すぐ飛んで帰ってきてくれたりして。でも、(お金に苦労した)そのときだけは、恨みましたね。親というか、家にお金がないことを。(養)母とは連絡を取っていたので、言えば食事や洋服のお金はもらえたんですけれど、家の電話や電気が止まったりするのは子どもじゃどうしようもなくて。
『なんでこんなうちに来ちゃったんだろう』っていう葛藤も、当時はありました。でも、おばあちゃんが知っちゃうと悲しいだろうと思って言えなかった。おばあちゃんは躾には相当厳しかったですが、すごくかわいがってくれていたので」
小中学校のとき莉恵子さんがいちばん気にしていたのは、周囲から「お金がない家」と見られることだったといいます。
「自分が養子だとか、母がいないとかよりも、『家にお金がない』と見られるのが嫌でした。だから、そこはうまく隠していたというか」
お金がないことは、決して恥ずかしいことではないはず――。そうわかってはいても、世間に偏見があれば、隠したい気持ちにならざるをえません。筆者も離婚後は厳しい時期がありましたが、周囲に知られたくはありませんでした。子どもたちの世界でも、シビアなことは多いでしょう。
ただ、莉恵子さんにとって幸いだったのは、近所の人に恵まれていたことです。家の近くには「なぜか親切なおばさんがいっぱい」いて、よく気にかけてくれていたのです。半分くらいはある宗教の関係者だったそうですが、それ以外の人も半分くらいはいたといいます。
「うちがこういう状態と知っていても、『あの家の子と遊んじゃダメよ』とか、そういうのは一切なかったです。友達の家に行くと、『お母さん(養母)、元気でやってそう?』と聞いてくれたりして。『かわいそう』とかじゃなく、自然と気にかけてくれて」
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