狂ってしまう人と踏みとどまる人の決定的な差 批判はいいが強制的に受け入れさせるのは危険
前提として、個人が狂ってしまうことはよくあることです。人間というのはひょんなことで簡単に狂ってしまう。私の周りにも、急に極右に振れてしまう人とか、極左の人でも悪いタイプの宗教に染まってしまう人たちとか、個人が狂ってしまうことはそこまで珍しいことではありません。そして狂ってしまった人たちは、他人の意見や批判に聞く耳を持たなくなります。
「健全なコミュニティー」という抑止力
そのうえで、個人が狂ってしまったときに、どのようにして暴力的な行動に結び付けないようにするかという視点が必要になってきます。
1つは間違っていることに「それはおかしいよ」と冷や水をぶっかけるという正攻法。ただ、これが一定の効果を発揮することもありますが、熱狂してしまっている人には響かないことも多い。あとはやはり「コミュニティー」というものが必要になってくるのかなと思います。つまり、その人のことを周りで見ている人が必要で、本人も自分が「このコミュニティーに属しているんだ」という実感を持っていれば、「周りに迷惑はかけられないな」という感覚が芽生えてくる。人間の脳みそは強くできていないし、自分で律するにも限界があります。
東海道新幹線の無差別殺傷事件の犯人である小島一朗被告にしても、相模原の植松聖被告にしても、そういった抑止力となるコミュニティーというものがなかったように思います。とくに小島被告の場合は、「家族」というコミュニティーがなくなって、「もういいや」と最後の枷が取れたといった趣旨のことを手記に書いていました。
経済的な不安も大きい現代は、「家族なんてコストでしかない。だから要らない、自由になろう」という言説が、とくに若い人の間でははやっているような印象がありますが、私はむしろ逆で、家族とかそういう常識の縛りというのはあったほうがいいと思っています。そういう縛りがないと、人間は簡単に逸脱してしまうのです。
よくあるのは、奥さんや旦那さんに先立たれてしまった高齢者が、情報の取捨選択のなかで、常識的な思考からどんどん乖離していってしまうという例です。ただ、高齢者が危険な思考を持ったとしても、何か行動に移せるほどの実行能力がないので、そこまで危険ではありません。
ですから若い人が、「家族はコスト」といった考えをステレオタイプに受け入れてしまうと非常にまずいと思っています。
私も政党を立ち上げて、人に選挙に出ないかと打診していく経験を持っていますが、その中で反応として多く聞くのは「家族に反対されてできない」という意見です。でもそれはすごく健全なことだなと思います。急に政治なんて突拍子もないことをするときに、「ちょっとやめなよ」と言って、一旦止めてくれる人たちが周りにいるのはすごく大事なことです。
私も家族がいなければ、今より自由に動けるとは思いますが、それは必ずしもいいことではないというか、制限がかからない分、悪いことのほうが多いと思っています。
例えば、家族がいて子供が熱を出したから今日は動けないとか、そういう制約があるからこそ、人間の思考というのは暴走しないともいえるわけです。
人間は簡単に狂ってしまう。それを前提に、狂ってしまったときにそれを止める抑止力にもなる健全なコミュニティーが大事なのです。
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