端的な例で言えば、異次元緩和においては、実体経済において貨幣錯覚を起こし、物価水準を上昇させたかったわけであるが、人々の消費行動は変化しなかった。一方、資産市場では錯覚は起こる必要はなかったのだが、量的緩和の拡大ということが、マネーが市場にあふれるという想像を膨らませ、リスク資産価格が急上昇した。
これは株価と地価を上げるために金融緩和をしたのなら、成功ということになる。しかし、実体経済に物価を通じて影響を与えようとしたのだとすると失敗である。資産価格が金融緩和によって上がり始めると、供給したマネーは上昇の流れのできたリスク資産市場に回ってしまうからだ。要は、バブルの流れができてしまうと、その後の金融緩和はすべてバブルを膨らませる方へ向かってしまうからである。
誠実な中央銀行はバブルを起こさないように努めるから、これは失敗といえる。政府の圧力で株価上昇のために金融政策を行ったのであれば(アベノミクスやトランプ政策はその可能性が大きいが)、中央銀行としては、政府の圧力に屈したことになり、独立性を自ら放棄するものであり、将来の金融政策に対して禍根を残すことになるから、大失敗である。
「人々は催眠術にかかる」と本気で思っていた人たち
第2の害悪は、資産バブルリスクとも関係するが、「期待に働きかける」というアプローチは危険だということである。期待にアプローチする手法は、論理的にも望ましくない。市場の現実としても政策運営の考え方としても、リスクが大きすぎる。
日銀の異次元緩和においては、インフレ期待を起こすことによって実体経済における現実のインフレを起こそうとした。しかし、実際には、現実のインフレが起こせないどころか、インフレ期待すら高めることはできなかった。前代未聞の国債買い入れ、株式の大量購入を行っても、だ。
理由は簡単で、インフレ期待がどのように起きるか、誰にもわかっていないからである。中央銀行がインフレを起こす、あるいはインフレが起きるまで金融緩和を続ける、という呪文を唱えると、人々は催眠術にかかったかのように、物価が上がると信じ込むはずだ、ということを、冗談ではなく、本気で信じていたようだ。それは黒田東彦総裁だけでなく、アメリカの著名経済学者たちもそうだったから、こちらのような普通の人間としては驚くばかりであった。だが、普通の感覚がない人たちには、普通の世界で何が起こるのかわからないのだろう。
そもそも、インフレそのものの生成構造もわからない。しかも、それはマクロ的な概念であるから、ミクロに生きる個々の経済主体にはわかりようがない。その経済主体がどのようにインフレに対して期待を形成するかはさらに謎というか、わかりようがない。本人たちもわからないし、背景となる構造もわからないし、何もわからないなかで、中央銀行が「インフレを起こします」、と宣言すれば、人々が起きると信じて、起きる前提で行動し、さらに、その行動がインフレを実際に起こす、ということが起きるはずがない。「起きる」と考えるほうが、どうかしている。
期待に働きかけるアプローチは効果がゼロであり、混乱させるという意味では、大きなマイナスである。「期待を動かせる」と期待させることにより、混乱が広がる。混乱に乗じて、乱高下で儲ける投機家たちが資産市場を荒らす。最悪である。異次元緩和という短期決戦のコストのかかる政策で効果がゼロというだけで、十分悪い政策ということだが、さらに投機家による資産市場の不安定化、というのは非常に大きな害である。
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