免疫系を活性化させ、細菌やウイルスなどの病原体の増殖を抑制するために起こる発熱は、いわばわたしたち人間の「生物的な限界」を知らせるシグナルだ。けれども、このような「生物的な限界」に屈してしまうことは企業レベルでは「経済的なロス」を意味し、個人レベルでは「いつもの調子を狂わせるバグ」を意味する。両者に共通するのは「生物としての人間」を度外視し、「平準化された身体」をデフォルト(初期設定)とする社会システムへの盲目的な信奉である。
「社畜体質」「社畜マインド」と揶揄される精神の根本にあるのは、決して衰弱したり、死んだりしない「人工的な身体」が作動しているかのように、「生物としての現実が存在しない」かのように振る舞いたがる無意識の衝動だ。企業も個人も本音のところでは、病原体などにペースを崩される「生物的な限界」を認めたくはないのである。それは、自分が事故や病気などで亡くなる可死的な存在であることを簡単に忘れるメンタリティーと非常によく似ている。
ウイルスが得る拡散と増殖のチャンス
驚くべきことに、そこには病原体の宿主となる「有機的な身体」は想定されていない。そのため、ただでさえステルス性の高いウイルスは、多くの拡散と増殖のチャンスを得ることになるのだ。これは先の「大気汚染」を勘定に入れない「経済活動」と同様、「自然環境」と「個体」を切り離して考える一種のファンタジーといえる。
大昔から感染症には、開発原病(開発が生態系を乱したことに起因する疾病)としての一面があった。近年、そこに地球温暖化による気候変動も加わったことによって、新興感染症の発生が増加することが懸念されている。現在のパンデミックはひょっとするとその序章にすぎないかもしれない。
わたしたちは自分の身体を皮膚より内側と安易に認識しがちだが、皮膚より外側にある空気や水、食べ物を取り込まなければ生きることができない。これらの安全性が担保されるには膨大な環境リソースが必要となる。身体は外部の環境とは無縁ではありえず、むしろ「身体の延長」とみなさなければならない。それには当然ながら地球の裏側に住む人々や動植物までも含むすべての生態系が含まれている。このような膨大な他者を自己の「身体の延長」とみなすことが共同性の基盤となるのである。
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