独身時代に貯めたお金も、この男性にほぼ使われてしまっため、10万円だけを持って家を出ることに。以来、一人で子どもを育ててきました。
子育て、仕事に加え、病に伏せった祖父の看病。さらに、祖母からは相変わらずあらゆる愚痴を聞かされる日々が続き、葉子さんはだんだんと心を削られていきます。意味もなく泣き出したり、朝起きたら目がまわっていたり。血が出るまで皮膚をむしってしまうこともありました。
ただし、不思議と仕事だけはできました。処方された薬を飲まないと起き上がることもできないのに、「この子を育てなければ」と思うせいだったのでしょうか。職場ではそれなりに評価も受けていましたが、家に帰るとおかしくなってしまうのです。周囲に話しても、精神科に通っていることを信じてもらえなかったそう。
葉子さんは苦しみながらも、しっかりと生活してきました。幼少時から周囲に否定されて育ち、「私なんか」という思いにとらわれつつ、こうして自分のことを淡々と、ときにユーモアさえ交えて話せるのは、なぜなのか?
どうも、祖父の存在が大きかったようです。祖母や父親らがいくら彼女を責めても、祖父だけは決して、彼女を悪く言うことはありませんでした。
「大正生まれのただのクソ爺(愛情を込めて)だったんですけれどね。でも、そこにおるだけで、バランスが取れていた。ばあちゃんがいよいよおかしなことを言ったときは、『ああ、いまのは、ばあさんがいけんわい』とポツリと言ったりして。亡くなる前日まで、私とは憎まれ口を叩き合ってましたけれど。うん、仲は良かったですね」
葉子さんは、祖父の視点に、とても支えられてきたのかもしれません。
「ここを出ろ」と促してくれたのは…
葉子さんが自分の人生に足を踏み出したのは、いまから約3年前のことです。自立心旺盛に育った子どもが遠くの大学に入り、一人暮らしを始めたため、葉子さんも安心して地元を離れられるようになったのです。
家を出るように促してくれたのは、葉子さんが子どものときにめんどうを見ていた、あのいとこでした。10歳下の彼女は、小さいときからいつも葉子さんが周囲から責められる様子を見ており、「お姉ちゃん、野田さんちの近くにおったら潰れる、早くここを出なさい」と何度も言い続けてくれたのです。
「私自身には、あそこを出るという発想がなかったですね。いとこは『お姉ちゃんは洗脳されとる。野田さんちのために働く、という頭ができている』とずっと言っとったんですけれど、実際そうだったんだと思います」
息子が大学に入った翌月、彼女はなんとなく、いま住む街を訪れました。縁もゆかりもない土地ですが、富士山がよく見えることや、のんびりした街の雰囲気に惹かれて、すぐに移住を決めたのだそう。
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