当時の西欧の観察者は、人びとの大量死によって賃上げ要求が高まったことにすぐに気づいた。カルメル会の修道士ジャン・ドゥ・ヴネットは、1360年ごろの年代記でペスト流行後の様子について書いている。
労働者は3倍の賃金でも首を縦に振らなかった
作家のウィリアム・ディーンが書いたとされるロチェスター小修道院年代記によれば、労働者不足が続いたため、庶民は雇用労働など歯牙にもかけず、3倍の賃金で貴人に仕えるという条件にもなかなか首を縦に振らなかった。
雇い主はただちに、人件費の上昇を抑制するよう当局に圧力をかけた。イングランドが黒死病に襲われてから1年も経たない1349年6月、国王は労働者勅令を発布した。
この勅令の効果は実際にはあまり上がらなかったようだ。それからわずか2年後の1351年、労働者制定法という別の法令で、こんな訴えがなされている。
そして、このやっかいな状況を是正すべく、さらに詳細な制約と罰則が科されることになった。ところが、一世代も経ずしてこの施策も頓挫した。1390年代初め、レスターのアウグスティノ修道会の修道士、ヘンリー・ナイトンは年代記にこう書いている。
もう少し中立的な言葉で言い換えると、政府の命令と抑圧によって賃金上昇を抑えようとする試みに対し、市場原理が勝ったということだ。雇用主、特に地主の個人的利益が、労働者に対して共同戦線を張ることによる強制できない集団的利益を上回ったからである。
イングランドばかりかほかの地域でも事情は変わらなかった。1349年、フランスも同様に賃金をペスト前の水準に抑えようとしたが、さらに早く負けを認めるはめになった。1351年には、改正法によって賃金を3分の1上げることがすでに認められつつあった。まもなく、人を雇いたい時は相場どおりの賃金を支払わなければならなくなった。
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