コロナで死去、立石義雄さんが大切にした良心 オムロン名誉顧問の最強の武器は「愛嬌」だった

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対して立石義雄さんは、筆者のような者までも含めて、人を選ばずフレンドリーに接するタイプだった。京都商工会議所会頭時代は、鋭い視点で誰に臆することなく堂々と意見を述べることが多かったのにもかかわらず、憎めない人柄のせいか、敵は少なかった。改革には軋轢がつきものだが、厳しい指摘もその「愛嬌」がカバーし、無血開城を可能にした。

夏目漱石は『虞美人草』で「愛嬌と云うのはね、自分より強いものを倒す柔かい武器だよ」と叙述している。まさに、立石義雄さんは「愛嬌」を最強の武器にし、大きな目標を達成した。財界人やその他の関係者(ステークホルダー)もサポーターにしていった。

広報の責任者を経験したせいか、マスコミ人に対しても、どこかの政治家のような驕る姿勢はいっさい見せず、「懇親会でも、向こう(立石義雄さん)から、気さくに声をかけてくれた」(全国紙記者OB)という。

「愛嬌」といえば、その重要性を唱えたことで有名な経営者がいる。パナソニック創業者の松下幸之助氏だ。「成功の条件は何かと問われると、「『運』と『愛嬌』でんな。その2つが備わっていてこそ、賢さ、勤勉さなどの能力が生きるのです」と常々強調していた。

愛嬌も運も「優」だった

立石義雄さんを大学風に評点すると、松下氏が指摘している愛嬌は「優」である。では、運のほうはどうだったのか。

オムロンは創業から間もなくして、産業機器の自動化に貢献するセンサー制御技術で急成長し、「東のソニー、西の立石電機(現オムロン)」と呼ばれるほどの高株価企業に急成長した。

立石義雄さんは稀代の成功者である創業者・立石一真氏の三男として生まれ、社名の由来となった京都・御室(おむろ)で幼少期、青春時代を不自由なく過ごした。

御室に残る家を訪れた時、一真氏の書斎がそのまま残されていた。机には、筆者が携わっていたビジネス誌の古い号が……。時間が止まったような空間で、立石義雄さんは「おやじの背中」を見ながら育ったのだろうと想像を膨らませたものだ。

御室の家には経営者の運気が漂っていたのではないだろうか。知らず知らずのうちに、立石義雄さんは経営者としての英才教育を受ける「運」に恵まれていた。よって、この点でも評価は「優」である。

永守氏とはどう違うのか。「尊敬する松下幸之助氏が亡くなられた94歳までトップを続ける」という永守氏だが、経営者になった26歳のときに松下氏の本を何冊か読み、「きれいごとばかりだ」と思ったそうだ。今も「フィクションは読まない」という徹底した実理論重視派である。

その主義から、自分と同様、七転び八起きの人生を経験した立石一真氏を「最も尊敬する経営者」と仰いでいる。一真氏も、たくましそうな若き起業家・永守氏を高く評価し応援していた。

2人は、常人では考えられないほどのパッションを有するという点では共通していたが、ライフスタイルを比べると、まったく異なっていた。「趣味は仕事」「仕事のストレスは仕事で解消する」と豪語する永守氏とは違い、一真氏は文学、演劇、音楽、絵画、医学、スポーツ、グルメなどに情熱を注ぎ、なおかつ経営も一流という、非常に器用な人だった。「人生の達人」とも評された所以(ゆえん)である。

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