コロナで死去、立石義雄さんが大切にした良心 オムロン名誉顧問の最強の武器は「愛嬌」だった

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くしくも立石義雄さんは、同志社大学時代に観世流の能楽部に所属していた。活動は運動部と同等、いや、それ以上に厳しかった。

4回生(関西の大学では4年生を意味する)の卒業公演で「蝉丸」の逆髪(さかがみ)役を京都勧世会館で演じた。能の謡曲を熱心に稽古していた父の立石一真氏が、その姿を見て「努力家だな」と褒めた。そのことがよほどうれしかったのだろう。卒業記念として父からもらった能面「孫次郎」を一生の宝物として大切にしていた。

筆者が「能面」を取った立石義雄さんと懇談した中で、今も記憶に残っているのは、マスコミの世界から神戸大学大学院へ移った時、東京出張前の忙しい中、京都で一席を設けてくださったことだ。経営に関する話だけではなく、人生についていろいろと教えを受けた。そのときに見た立石義雄さんは、京都財界を代表する人というより、よき先輩という感じだった。

立石義雄さんは、中学校から大学まで同志社で10年間学んだ「同志社人」。中、高、大(経済学部)の先輩であるダイキンの井上礼之会長は、立石義雄さんとは公私ともども深い仲で、立石義雄さんはダイキンの経営諮問委員、井上氏もオムロンの社外取締役を務めた。

井上氏と立石義雄さんはどことなく雰囲気が似ている。肩ひじを張らず、社交的。上から目線で人を見ることがない。ちなみに、会美子(えみこ)夫人も同志社大学の1年後輩である。

恋愛でも見せた攻めの姿勢

立石義雄さんは入社後、ニューヨークに赴任する。しばらくして、大学の同期でハーバード大学に留学していた高田晶さんが、ニューヨーク万博の日本館でコンパニオンを務めていた市田会美子(旧姓)さんを紹介してくれた。立石義雄さんは、英語が堪能で美人の会美子さんに一目惚れ。3度目のデートでプロポーズした。攻めの経営でオムロンをグローバル企業に育て上げた立石義雄さんは、恋愛でも攻めの姿勢を見せたのだった。

会美子さんとの間に3人の息子と1人の娘を授かり、「元気印」をより輝かせた。そのパワーがオムロンを活気づかせた。

社長に就任してから10年目の1997年、実践知をもとに論じた『明日の経営 明日の事業―最適化社会を求めて―』(PHP研究所)を上梓した。その出版記念パーティーが東京都内のホテルで開かれたとき、筆者は初めて会美子夫人にお会いした。京ことばでいうところの「はんなりとした」京女だった。

立石義雄さんの死を追うかのように、女優の岡江久美子さんが亡くなった。夫で同じく俳優の大和田獏さんとのおしどり夫婦ぶりがマスコミで紹介されていたが、立石義雄さん夫妻も京を代表するおしどり夫婦だった。

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