宮崎西高は、選手数も1学年10人ほどだったが、県大会で私学の強豪校を破ったこともある。
「試合前のミーティングでは、里岡監督は『5回まで0-0でいけ、相手の監督が切れだしたら、そこから仕掛けろ』といって急にギアを入れて違うことをした。強い相手に、頭を使って勝つ野球を教えてくれたんです。それが僕のDNAになった。
ビジネスの世界で言えば、組織、金、インフラとリソースが全部そろっている大企業にどうやって勝つの?ばかり考えてきた。真正面からいかなくても、試合で勝たなくても、意味で勝つ、ブランドで勝つみたいなビジネスをしてきた。そのスタートは、高校野球だったんですね」
熊本のポジションは捕手。一方で熊本はサブカルチャーの世界にもどっぷり浸かっていた。18歳からDJもやっていた。
「ガチな野球をする連中と、昔で言えば“不良”みたいに見られる連中、両極端に付き合いがあって、どっちでも“キャプテン”だった(笑)。そのときに、何が恰好よくて、何が恰好悪いかというデザインの判断力を磨きましたね。
大学ではDJと準硬式野球を両方やっていて、違和感がなかった。学生のころからパラレルキャリアだった。朝までDJをやって、朝になったら野球に行くような生活でした」
大学を出て大手家電メーカーに勤め、その後独立して創業、熊本はしばらく野球を離れていた。しかし、12年前に熊本の「野球心」が再燃する出会いがあった。
格好いい草野球チーム「東京バンバータ」
「2008年に、昔の野球仲間だった廣島健光に出会った。彼は徳山大から日本通運とずっと野球をやってきたエリート選手。東京の宮崎料理の店で飲んだときに“野球またやろうぜ”って言われて、その夜寝られなくなったんですね。スイッチ入ったな、という感じで、野球をまたやり始めたんです。そのときはまだロン毛でパーマでしたけど(笑)」
廣島は今年発足する東京ヴェルディバンバータU15の軟式野球チームの監督に就任する。
熊本は、軟式野球チーム「東京バンバータ」を作った。ただし3年で日本一になれなければ解散という高いハードルを自ら設定して。「バンバータ」は、ヒップホップの名付け親であるミュージシャン、Afrika Bambaataaから取った。
「もちろんデザインにもこだわりました。ユニフォームのメインカラーを緑にしたのは、当時、一番人気がなかった色だったからです。誰も選ばない色を使って、いちばん格好よくしてやろうじゃないかと思った。
2006年の第1回WBCをアナハイムで見ていますが、そのとき、緑がテーマカラーだったメキシコチームが格好いいと思った。そのオマージュの意味もありました。僕らはブランドを作って認知させる仕事をしてきた。なんでもIP(知的財産)にしてきた。それを野球でもやろうと思った」
1年目は弱かった。せっかくの格好いいユニフォームだったが、選手たちの着こなしは格好悪かった。しかし、ユニフォームの着こなしがよくなってくるとともに、力をつけていく。東京バンバータは、2011年高松宮賜杯第55回全日本軟式野球大会2部で優勝した。
「そのころから、僕は“野球を一生懸命やると、ビジネス脳が鍛えられる”ことに気が付いた。
野球はいろいろな人を巻き込むことができる。スポンサーだって。“草野球にスポンサー?”と言われたけど、僕は“つけれるよ”と思っていた」
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