しかし、無数のこういう行動があってこそ、社会全体に殺伐とした感じは出てこず、むしろ安定性につながる。逆にもし連帯がなければ社会そのものが成り立たなくなる。
悲しいかな、個人主義といっても他の個人との関係がまったくない「社会」では、1人きりで砂漠で生きていくようなものなのだ。
前述したように「(コロナ危機には)誰もが対応する責任がある」(バイエルン州首相)というのは、個人主義が成り立つ社会を維持する責任と読み替えることもできるだろう。
個人にも連帯という考え方が広がっている
個人が同様の発言をしたケースもある。感染の可能性のある医師が夫人とともに2週間自宅待機することになった。このとき、メディアの取材に対して「仮に感染してなくても自宅待機。社会に対する責任がある」と述べている。
個人も、より広い社会という感覚を持っているのがうかがえ、自宅待機は消極的な連帯とも解釈できる。ドイツは社会的な側面からは、こういう連帯という原理でコロナ危機を乗り越えようとしているわけだ。
3月18日に行われたメルケル首相の演説を見ると、「われわれはデモクラシーである」と述べ、それゆえ「強制からではなく、知識と参加によって生きている」と続けている。個人主義は決して個別主義ではなく、どうすればデモクラシーの国として成り立つのかを提示している。そんな中、連帯で乗り越えようとしているのだ。
連帯はデモクラシーや個人主義など、国の構造と整合性のある団結原理だ。だから政治家の言葉に説得力が出てくる。「自粛」「要請」とはまた違う。
新型コロナウイルスはそれぞれの国や地域の政治、社会の構造、価値観を浮き彫りにする。まだまだ安心できない危機だが、収束したとき、どんな対策を講じたのか検証することは重要だ。
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