連帯はメルケル首相やスパーン連邦保健大臣も3月11日の記者会見で、市民に求めている。
日常生活の制限があるが、「私たちが一緒に立ち、賢明にお互いに注意を払えば対処できる」(スパーン保健大臣)。バイエルン州首相ゼーダー氏もそうだ。「コロナ危機を乗り越える課題に対し、誰もが対応する責任があり、誰もが貢献して連帯を示すことができる」と述べている(3月17日)。冒頭で紹介したメルケル首相の演説でも「戦後、このように、われわれが皆で連帯で乗り越えるべき挑戦はなかった」と、深刻な事態であることを説明した。
自治体を見てみよう。筆者が住むエアランゲン市(バイエルン州、人口11万人)ではバイエルン州政府が社会的接触の最小限化を命じたことについて、フロリアン・ヤニック市長は同時に慎重さ、相互支援、連帯が重要で「今後数週間、この精神が大切になる」と述べている。
自宅待機は「社会に対する責任」
確認が繰り返される「連帯」とはなんだろうか。 例えば、病気、高齢で免疫力が低下し、外出ができない人の代わりに買い物、犬の散歩の代行。あるいは1、2人の赤ん坊・幼児の世話をするといった、個人が他の個人に手助けすることを指す。
ドイツには自治会などの地縁組織がないため、回覧板をまわすような雰囲気が実はない。アジアでは地縁・血縁のネットワークが強いところが多いが、それとは対照的だ。身も蓋もない言い方をすると、「赤の他人」の集まりである。
しかし、他者を助けるということは当然ある。それは地縁・血縁といった限定された関係ではない。赤の他人の集まりであることを前提にした、「社会」というより普遍的な感覚の中でおこる。町のなかで車椅子やベビーカーの人を躊躇なく、ひょいと手助けする人が西洋に多いのはそのためだ。これが社会的連帯である。
ある報道では、買い物のほかに、次のようなものを「連帯」として取りあげている。
ソーシャルメディアを使って行うコンサートや公演。WHO(世界保健機関)が設置するコロナ対策のための基金への寄付。ウイルスについての質問などができるコロナホットラインがあるが、それに対して、一定の試験に合格している医学生の協力。そして献血などである。いずれもボランティアや寄付だが、原理的には「連帯」なのだ。
連帯には専門的な議論があるが、西欧社会で確立してきたもので、日常的に頻出する。そして個人主義とセットであるともいえる。 どういうことかというと困っている他人のために何かをするのは自己決定だからだ。自由意思による行動で、滅私奉公ではない。明らかに個人主義である。
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