無理なら帰ってくればいいと伝えていたけれど、あるとき意識よりも先に体のほうが音を上げてしまった。寮で2日ほど熱が続き、食事が取れなくなってしまったらしい。熱が出た人は寮母さんのところに行くようにと先輩から教えられ、娘はそれまでどこにあるかも知らなかった寮母さんの部屋をこのとき初めて訪れたという。
「寮母さんは何人かいて日替わりでやってくるんだけど、あんまり会うことがないんだよね。だからその寮母さんにもその日初めて会ったんだけど……」
ノックに応じてドアを開けた寮母さんは、大ぶりのパーマのかかった肩までの髪に大きな真珠のイヤリングをつけ、鮮やかな赤のワンピースという装い。清貧をよしとする学校の中では異質な華やかさに娘は驚き、けれど不思議とどこかほっとした気がしたらしい。
発熱していることを伝えると、寮母さんは畳敷きの古い四畳半の宿直室に、にこやかに娘を迎え入れてくれた。それから、すぐに部屋に備え付けられた小さなキッチンのガスコンロに鍋をかける。冷凍庫からうどんを1玉取り出すと、スープの煮立った頃に鍋に入れる。なんでも寮で熱を出した生徒は、こうして寮母さんにうどんを作ってもらうという、これまたこの学校に長く続くしきたりであるらしい。
「うどんを作ってくれてる間、寮母さんがずっと話を聞いてくれるの。学校の生活はどう? 大変じゃない? って。それで私もつらいことを全部話したら、それは大変ねえってすごく心配してくれて」
寮母さんは、自分もその学校の卒業生であること。また自分が学生の頃にもたくさん思うところがあって、何度も大変な思いをしたことを、娘に話して聞かせてくれたそうだ。
「それまで誰もわかってくれる人がいなかったから本当にうれしかった。うどんをすすりながら泣いちゃったよ」
外の世界を知っている寮母さん
寮母さんは普段、都内で輸入雑貨店を営んでいるといい、去り際の娘に自身の名前と連絡先、店の住所の書かれた名刺を手渡してくれたのだという。
学校のほとんどの先生はその学校の卒業生で、生徒のほうもまた、親や兄弟が卒業生であるケースが多いという。そういった中でこそ創立当初からの学校の文化は大切に守り抜かれてきたのだろうが、一方でそんな脈々と続く時間の外側からふいに飛び込んでしまった娘には、私に見えている以上に大変な負担がのしかかっていたのだろう。
その場では当たり前とされていることに疑問を持ったり、誰かが苦しみ、傷ついているかもしれないと思い悩んでいるのはこの中で自分1人なのかもしれない。
もしかすると娘はずっと、そんな孤独の中にいたのかもしれない。だからこそ、思いがけず出会った、その場には決してなじみ切らない、外の世界を知っている華やかな寮母さんの存在が、心強いものに感じられたのかもしれない。
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