古くて、狭い。東京郊外の公団住宅。でも、日当たりは抜群にいい。それにここなら、これまでとは違って一人に一つ、自分の部屋が持てる。Yはすぐに、いいな、と思った。だけど、一番の決め手になったのは7歳になる息子の、文字通りの“嗅覚”だ。
「臭くない!」
初めてこの部屋の内見におとずれたとき、息子は部屋に入るなり、ひまわりように晴れやかな顔で、確かにそう言ったのだ。
母一人、子一人の、新しい生活
これまで見てきたいくつかの部屋で、彼は玄関に入るなり「臭い!」と顔をしかめて鼻をつまんだ。言われてみれば確かに、少しカビ臭い気もした。そうはいっても、限られた予算ではぜいたくも言えない。このまま条件に合う部屋が見つからなければ、感覚の人一倍敏感な彼を、どうにか説得しなければならないだろう。……が、果たしてそんなことできるのだろうか。考えるだけで気がめいった。
Yがその部屋にたどり着いたのはそんな矢先のことで、だから、見えない力に強く背中を押された気がした。大丈夫だ。自分の選択はきっと間違っていない。
ここで母一人、子一人。二人だけの、新しい生活を始める。
私がYと初めて会ったのは2年前、とある子育て系のイベントに登壇したときのことだった。登壇者たちによる話がひとしきり終わったあと、質疑応答のタイミングで、彼女は誰よりも早く手を挙げて言った。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら