「うどん、おいしかった?」
ついしんみりしながら私が尋ねると、娘が急に言いにくそうに苦笑いして答えた。
「それがさぁ、なぜかやたら麺がのびてて、まずかったんだよね」
ほっとしながら食べるまずいうどんの味は、これから先もずっと娘の記憶の中に残り続けるのだろう。
なじめないからこそ持てる特別な力
それからしばらくして娘は寮を出て、家から通学するようになった。それで負担は軽減されるかと思ったけれど、結局やっぱり学校にはなじめなかった。休みの日にはクラスの友達と遊びに出かけたりもするし、家に帰ればLINEでメッセージを交わしている。少なくとも、仲のいい友達はたくさんできたようだった。
学校の先生からも、何度も温かい言葉をかけてもらった。けれども通学を続けていた間、娘はしょっちゅうさまざまな原因不明の体の不調に悩まされ、いろんな病院にかかっていた。不思議なことに、もう行かないと決めてからというもの、一連の症状は嘘みたいに収まった。
娘は間もなく今の学校を辞め、春からは別の学校に通うことになった。すっきりした顔の中にもたまにふと「大丈夫かなあ」と不安をのぞかせることもある。
「大丈夫。合わなければまた別の学校に通えばいいじゃん」
と、私もやっと、言えるようになった。
だけど同時に思う。その場にすっかりなじんでしまえない人、どこか居心地の悪さを抱えている人というのはいかなる場所にも絶対にいる。だからこそその1人ひとりは、そこにすっかりなじんでしまっている人が決して持ちえない、特別な力を持っている。
寮母さんが今にも心折れそうな娘を温かくもまずいうどんですくい上げてくれたように、異分子で居続けることの心細さを知っている人でなければできないことが、世界の中には確かにある。
だからもし大丈夫じゃなくても、本当は大丈夫だよ、と心の中で付け足す。
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