「死にたい場所を選べない」日本人の悲しい最期 最期まで望みを持って生きられる社会へ
井手:そうか。家族のほうも、厄介払いをしようと思っているわけでなく、本人が何を望んでいるのかわからなくて苦しんでいるんですものね。
佐々木:そうなんです。いちばんいいと思えることをやってあげたいという気持ちはどこかにあるんですよ。最後まで家で面倒をみるのは無理だと思っていた家族も、在宅医療を始めて、おばあちゃんがニコニコする時間が増えてくると、家にいたいという、おばあちゃんの気持ちがわかってくる。
ヘルパーさんが結構お世話してくれて、看護師さんも来てくれて、思ったよりも自分たちもプレッシャーを感じていない。となると、これは最後までいけるんじゃないかと思い始めるんですね。そうなると結局、自宅で看取ることができます。
井手:なるほど。おばあちゃんの本音がわかって、その思いをかなえるサポート体制が取れれば、お互い希望が持てる。
佐々木:そうなんです。ところが、おばあちゃんが弱ってきたら老人ホームに預けて、最後は病院で、という時代が結構長かったし、核家族が増えて、お年寄りと一緒に暮らす人も減ってしまった。だから、老いを迎えた人がどんなふうに弱っていき、どう死ぬかを知っている人は少ないと思うんです。
人生をどう「下山」するか
井手:3世代同居が激減して、人間が年を取ること、愛する人が死んでいくことを、子どものときに体験できない人が増えてますものね。
佐々木:おばあちゃんの体が弱ってきて、寝ている時間が長くなっていき、ご飯を食べず、水も飲まなくなって、だんだんと呼吸が弱くなっていく。これは老衰という当たり前のプロセスですが、初めて目にすると、点滴したほうがいいのでは、とか、何か治療が必要なんじゃないかと思ってしまう。
人間がどう成長していくかは誰もが知っていますし、人生の高みを目指すための情報はたくさんある。ですが、人生をどう「下山」すればいいのかという問いは、後回しにされている印象です。
井手:「下山」という表現、いいですね。