大学を出て最初に就職したのはミランダカメラでした。国産初のペンタプリズム式一眼レフカメラを発売した老舗企業。ここで5年半ほどカメラの設計をしていました。もっともベンチャー企業でしたから、設計技術者は社長と私だけ。東京大学の先生に機械設計や部品加工技術を教わりながら、手探りで実践していました。生まれつき、独創的な商品や企業に惹かれる性質なのでしょうね。
対米輸出で業容拡大したので、アメリカの商社に増資してもらいました。ところがこの商社が、新製品を見るとすぐ「2~3カ月後に大量に売ろう」だとか単純なことを言う。とにかく早く投資を回収したいわけです。カネを出して工場を建てるだけでなく、技術者を教育したり治工具類を自前で作ったりしなければ生産できないということが、技術屋ではないからわからないのですね。
希少人材が、当時のソニーにはいっぱいいた
これは嫌だと思っている折に、ソニーが中途採用をしていると知り、応募しました。東大の先生らから独創的な仕事を思う存分やらせてくれると聞いて、あっちでやってみるかと。当時のソニーは私を含めて、中途採用の技術者が多かった。実は技術者には、十を百にするタイプと、ゼロから一を生めるタイプの2種類があります。後者は100人中3人でもいたら御の字の希少人材ですが、当時のソニーにはいっぱいいた。国産初のビデオテープレコーダーを開発した木原信敏さんなど独創的な技術者が、自分と似たような人間を見つけて集めたからでしょう。プレイステーションを作った久夛良木健君や、デジタル高画質技術の近藤哲二郎君なんかはこういうタイプでしたね。
ただ一を生む技術者というのは、世にいう奇人・変人が多い。会議なんかやると大変ですよ、いろんな意見が出て。当時のトップが偉かったのは、「私はそう思わない」と主張するやつの意見を傾聴していたこと。賛成の声はちっとも聞かない。確かに賛成意見をいくら聞いても自分と同じわけだから、聞くまでもないでしょう。言うほうも意見を全部聞いてもらえれば、その後に決まった方向へガーッと突き進めます。
ところが私たちの世代が役員になる頃には、一流大学で成績10番以内というような人が教授の推薦を受けて、放っておいても入社するようになった。技術者が「この指止まれ」式で技術者を探す必要がなくなったのです。あの頃から私は、ソニーもだんだん危なくなるなとひそかに思っていたのです。
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