「四十にして惑わず」?
40歳という年齢で、私の頭に浮かぶのは、「四十にして惑わず」だ。「論語」の中にある有名な孔子の言葉である。前後の文脈も見てみよう。
「子曰く、吾(わ)れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
このように自分の人生をライフサイクルというか、時間軸で見ることはとても大切だと思っている。サラリーマンはどうしても、目先のことに追われがちになるからだ。
先日、一緒に仕事をした女性ライターは、「四十にして惑いっぱなし」とつぶやいていた。その点は私も同感だ。
40歳というと、「課長 島耕作」といった人物を思い描くかもしれない。しかし美女とフランス料理を食べるのではなく、仕事の合間に、ひとりで吉野家の牛丼や王将の餃子を食べていたのが私の実際の姿だ(もちろん島耕作との対比のことだけであって、吉野家さんも王将さんも私にとっては、学生時代からずっとお世話になっているありがたい存在だ)。
40歳というのは、会社員生活の折り返し地点であると同時に、人生80年の中間地点でもあるというのが興味深い。また管理職、非管理職の登用時期もこのあたりなので、会社の中での自分の立場が明確になる時期にも符合している。
まだまだ若いと思っていても、40歳ころから体力面の衰えも感じ始める。これも無視できない要素である。加えて子どもの養育や住宅ローンなども絡み、経済的にも精神的にもプレッシャーを受けがちである。
そういう意味では、「四十にして惑わず」というのは、やはり違和感がある。また「吾れ十有五にして」から始まる言葉も、この「四十にして惑わず」でオヤッと思ってしまう。惑わなくなる時期が早すぎるからだ。
孔子自身も、30歳のときには官吏として順調だったが、40歳のときには、仕官先を求めて苦労している。魯の国で重要なポジションを得たのは、52歳のときだというのだ。
企業のシステムも関係している
この会社員が抱える揺らぎは、企業のシステムが、合理性、効率性中心で運営されることにも関係している。仕事は、数字やおカネに換算できるもので回るので、どうしても社員の個性の発揮は制約を受ける。
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