「生活保護をもらうのは、後ろめたい」
週3回の人工透析を受けながら、月額約6万円の障害年金で暮らすマサヒロさん(仮名、52歳)は、そう言った。
生活は厳しい。今夏、クーラーを使ったのは、熱帯夜が続いた8月のある夜の1時間だけ。トイレは、水道代を節約するため、近所のコンビニで借りる。食事は、閉店間際のスーパーで半額に値引きされた総菜。風呂がないので、週1、2回だけ銭湯に通う。携帯や公共料金の支払いも滞りがちだ。
「健康で文化的な最低限度の生活」からは程遠いのに、マサヒロさんは生活保護を利用するのは「恥ずかしい」のだという。
「親戚の中には、都庁に勤めている人もいますから。生活保護なんていったら、顔向けできなくなっちゃう」
私が、なぜ恥ずかしいのかと尋ねると、マサヒロさんは、こいつは何を当たり前のことを聞いてくるんだという顔をする。重ねて尋ねても、筋道立った答えは返ってこなかった。
日本に根付く「生活保護」に対しての概念
生活保護は“恥”である――。貧困の現場を取材していると、こうした声を耳にする機会は少なくない。しかも、貧困状態にある当事者がこうした言葉を口にするのだ。
身体を壊して働けなくなった60代の独身男性は「故郷の秋田に帰りたいけど、生活保護では世間体が……。年金をもらえるようになったら、故郷に帰りたい」と言った。また、働いても、生活保護水準以下の収入しか得られないシングルマザーは「簡単に福祉に頼るような人間にはなりたくない」と、ダブルワークを始めた。
生活保護に対するスティグマ(社会的羞恥感)は、昔からあるには、あった。一方、メディアや政治、社会あげての「生活保護バッシング」が巻き起こったのは、2012年、人気お笑い芸人「次長課長」の河本準一の母親が生活保護を受給していると、週刊誌がスクープしたことがきっかけではなかったか。
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