織田裕二が「世界陸上」に欠かせなくなった理由 12大会連続、紆余曲折と変化の22年間
ラグビーやバレーボールのワールドカップが放送される中、「世界陸上」も負けていません。9月27日から連日深夜に「世界陸上ドーハ2019」(TBS系)が放送され、男子50キロ競歩の鈴木雄介選手が金メダルを獲得するなど、盛り上がりを見せています。
盛り上げているのは、TBSが「世界陸上」中継をスタートした1997年のアテネ大会から12大会連続でメインキャスターを務める織田裕二さん。現在では、多くの人々から「織田裕二のいない『世界陸上』は考えられない」といわれるほど、番組を象徴する存在になりましたが、かつては批判も少なくありませんでした。
批判の主な内容は、「テンションが高すぎてうるさい」「感情移入しすぎで競技の邪魔」などの辛辣なものでしたが、それでもメインキャスターを続けてこられたのは、織田さんが単に「陸上が好きだから」という理由だけではなく、「そのパーソナリティーによるところが大きかった」とも言われているのです。
これは裏を返せば、「織田さんを見る視聴者の目が変わってきている」ということ。織田さんはどのように批判を乗り越え、「織田裕二のいない『世界陸上』は考えられない」と言われるほどの存在になれたのでしょうか。
織田さんのパーソナリティーと、批判を乗り越えた過程には、ビジネスパーソンに参考になるものが凝縮されていたのです。
当時は陸上競技に詳しくなかった
中井美穂さんとともに「世界陸上」のメインキャスターに就任した1997年、織田さんは1987年の芸能界デビューからすでに10年が経過していました。
1991年のドラマ「東京ラブストーリー」(フジテレビ系)でブレイクし、その後も1992年に「あの日の僕をさがして」(TBS系)、1993年に「振り返れば奴がいる」(フジテレビ系)、1994年に「お金がない!」(フジテレビ系)、1995年に「正義は勝つ」(フジテレビ系)、1996年に「真昼の月」(TBS系)と毎年主演を飾ったほか、歌手としても「歌えなかったラヴ・ソング」「OVER THE TROUBLE」がヒットするなど、芸能界最高峰のスターに上り詰めていました。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら