「日雇い労働者の街」でカフェを営む女性の真意 「ゆるすまち、ゆるされるまち」の日常
体調が少し戻ってきた25歳のある日、地下鉄のホームにぼんやり立っていると暗闇から地響きのような音がした。線路に光が差し込んで電車がホームに入ってくる。そのとき、ハッとひらめいた。
「電車がいま目の前にやってきたのは、時間になったからやない。線路を作る人や働く人の服や食べ物を作る人、運ぶ人─そんなたくさんの人たちがどこかで働いているから。いろんな人が、目の前にいない誰かのために働いている。私も、その世界に1ミリでもいいから参加したい」
このときから、コピーライターとしての仕事への姿勢、人との関わり方が変わったと上田さんは言う。月に1度、継続することを意識して小さな朗読イベントも開始した。
詩人から一転、料理人に
当時、京都はアート活動が盛んだった。音楽、映像、ダンス、演劇、現代美術、伝統芸能─幅広いジャンルで躍動する若手と出会い、今も交流は続いている。釜芸の講師をお願いすることもある。振付家でダンサーの砂連尾理さん(52)も、当時から上田さんを見てきたひとりだ。
「京都には社会問題と芸術表現を考える仲間がたくさんいました。彼女は詩人でありながら、ストリップ劇場で客からの要望に応えて詩を朗読したり、トイレの中に観客を連れ込んで一対一で朗読したり、実験的で独創的な活動をしていました。何にもとらわれず、とても自由に生きている印象でしたよ」
砂連尾さんの印象とは異なり、29歳になった上田さんの中では、複雑な思いが渦巻いていた。砂連尾さんをはじめ京都でつるんでいた仲間たちが次々と世界へ旅立っていくことへの焦りもあった。
30歳を目前に仕事を辞め、調理学校に通い、調理師免許を取得。吉野の旅館に住み込みで働き始めた。
「不況になり、コピーライターは商品を売り込むためだけの仕事になった。仕事と詩、どちらも中途半端でした。人生は1回限り。自分で選んで自分の人生を生きていけるなら、ことばにこだわらんでもいいやんと思った」(上田さん)
料理の道を選んだのは母の影響も大きい。ひとり暮らしで不規則だった暮らしや食生活を立て直したいという思いもあった。
自分で選んだとはいえ、住み込みの調理の仕事は体力的につらかった。職場は男性が多く、カルチャーショックを受けた。休み時間の話題は車とパチンコと野球。お運びのおばちゃんとも共通の話題は見つからない。
そこで、こちらから質問を心がけた。吉野の山奥、ダムで沈んだ集落出身のおばちゃんに、「ダムに沈む前はどんな村でしたか」「子どものころにしてた遊びは?」と聞いてみた。すると相手の表情がみるみる和らいでいく。話が合わないと思っていた人との距離も縮まった。