「日雇い労働者の街」でカフェを営む女性の真意 「ゆるすまち、ゆるされるまち」の日常
2008年、38歳になった。プロジェクトが終わりフェスティバルゲートを出るとき、移転先に迷わず釜ヶ崎を選んだ。釜ヶ崎は新世界の南側にあるさらにディープな地域だ。そこでカフェのふりをして、表現の場をつくろう。
その当時の上田さんの言葉を砂連尾さんは聞き逃さなかった。
「私は今でも、ただ純粋に詩をやりたいだけ。だけど本当に詩をやるために必要なのは、この地域とちゃんと関わり、この土地に生きている人たちと関わることだと思う」
しかし、「引っ越してしばらくは困惑していた」と上田さんは振り返る。
「最初は、地域のおじさんたちが何を言っているのかわからなかった。不安定な言動にも振り回された。警察ざたもあった。この街の人たちと一緒に詩を作り、朗読し、舞台に上がるなんて想像ができなかった」
大事なのは表現できる場をつくれていること
それでも、とにかく毎日カフェを開けた。本当にいろんな人がやってきた。
「これまで楽しかったこと」
「野宿して大変だったこと」
おっちゃんの人生に思いを馳せ、話を丁寧に聴き続けた。アッケラカンとした様子や織り交ぜる笑いに驚かされた。
そのうち、いろんなことが見えてきた。暴力、差別、貧困、病気などの困難さが積み重なると抱える疎外感は根深い。でもどっこい生きている。
「しんどさを抱え、声を奪われた人たちが多い街だからこそ、自分の気持ちを表に出し、相手に伝えること、自らその声を聞くこと、誰かにその声を受け止めてもらうことが必要なんだとわかった」
開店当初から毎日来るおじいさんがいた。優しそうな人を見てはお金をせびり、トラブルを起こす。ほかのスタッフは出入り禁止にしよう、と言うが上田さんは首を縦に振らない。そのかわり、トラブルのたびに店の外で話を聞いた。1年半ほどたったころ、店内のワークショップに参加しないこの人を、手紙を書く会に誘った。すると「書く」と言って上田さんの隣に座る。ペンをとったが手が止まる。そしてひらがなの書き方を聞いてきた。
「彼の手紙のあて先は、彼が生まれ育った養護施設の園長さんでした。ココルームに通ううちに、ここでは字の書き方を聞いても誰もバカにしたりしないと思ってくれたのだと思います。そのとき、大事なのは表現することではなく、表現できる場をつくれているかなのだと教わりました」
しんどい人生を生きた人はたいていのことには驚かない。