「日雇い労働者の街」でカフェを営む女性の真意 「ゆるすまち、ゆるされるまち」の日常
「私、相手が大切な思い出の話をしてくれる声の感じや、一緒に過ごす時間がすごい好きなんやってわかったんです。一生懸命働いた後、外に出ると満天の星が見えました。星が、私のこと見てるよって言ってくれてる気がした。世界はそうやって、無名の人たちが自分の人生を懸命に生きてるんだって思いました」
1年の調理学校、4か月の住み込みを経て、「もう1度ことばの仕事に戻りたい」という思いに駆られた。
学生の死を悔やみ、覚悟の「詩業家宣言」
知人の紹介で大阪でライターの仕事をしながら、詩のワークショップを企画し、再び動きだした。ある日、ひとりの学生にこう相談された。
「詩を仕事にしたいんです」
そのとき、上田さんは何も答えられなかった。
「詩で食べていけるのは谷川俊太郎さんくらいや。詩を仕事にせんときや」という母の言葉を守っていた。
学生はその1週間後、飛び降りて亡くなったと耳にした。
「どうしてあのとき、“しんどいけど頑張りや”って言えなかったのかと後悔しました。私自身が詩を仕事にできないと思い込んでいることにも気づかされた」
ちょうど仕事もクビになった。今ならどんな未来でも選べる。ブログに詩を生業にすると「詩業家宣言」をした。「何のあてもないけど失敗したらやめればいい。やってみたいことはすべてやってみよう」
すると、それまでの活動を知っている人や、つながりのあった人から「詩人」として声がかかるようになる。
最初の大きな一歩は2003年からの「新世界アーツパーク事業」。現代芸術の拠点形成を目指した大阪市のプロジェクトだった。新世界と呼ばれる新今宮駅前にあった娯楽施設、フェスティバルゲートの一室を芸術の振興を目的として運営するというものだ。
元中華料理店を『ココルーム』と名づけ、表現者を目指しバイトで食いつなぐ若者の働く場所として機能させ、アートに興味のない人にも気軽に来てもらえるようカフェを始めた。
そして1年後、NPO法人『こえとことばとこころの部屋』として法人化した。
アートを目指す若者をはじめ、さまざまな人が来た。悩みや困難を抱えた人たち、隣町の西成区、釜ヶ崎と呼ばれる地域で活動する人もカフェに来るようになった。話すうちに釜ヶ崎の歴史や背景を知るようになる。上田さんにとって、ことばは「自分の中のことを表現するものではなく、名もない人や世界を記録するもの」になった。
釜ヶ崎に足を運ぶ機会も増えた。街角でリヤカーを引く人がハーモニカを吹いている。自作俳句が貼ってある野宿小屋もあった。釜ヶ崎の人たちの声にならない声をもっと聞きたいと思いはじめていた。