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「断行して辞職しようか」前代未聞の白紙撤回事件、単なる意地の張り合いで公定歩合の実情あらわに バブルの終わり④

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左から海部俊樹首相、三重野康日銀総裁、吉本宏副総裁(1989年12月撮影)
左から海部俊樹首相、三重野康日銀総裁、吉本宏副総裁(1989年12月撮影)(写真:共同)

豪快な人柄を見込まれ日銀入り

三重野康への評価はさまざまだが、傑出した人物だったことは間違いない。

幼少期を満州で過ごし、貧しさゆえに相撲部屋に居候し、旧制一高で全寮委員長を務め、その豪快な人柄を佐々木直(のち日銀総裁)に見込まれ日銀入りした。早くから総裁候補と言われた三重野は1989年11月に内示を受けるが、「はっきり思い出せない。おこがましいが、私がなるのは当然だとみんな思っていた」とオーラルヒストリーで笑い飛ばしている。

生え抜きの総裁に行内は沸き、「三重野軍団」と呼ばれた側近たちは大蔵省支配からの脱却を図る策を練った。その一環として浮上したのが就任直後の公定歩合引き上げである。10月の第2次利上げからまだ日は浅いが、ここで動けばインフレ抑制のメッセージになる。三重野の指示を受け、極秘作戦が12月初旬に動き出した。

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

当時、総務局長(現在の企画局長)だった田村達也(のち理事)は、オーラルヒストリーで「(就任の)2週間ぐらい前に上げる話になっていて、大蔵省サイドと日銀サイドでゴーサインが出て、あとは実施するだけという秒読みの段階だった」と語る。

大蔵省の調査企画課長だった久保田勇夫(のち国土事務次官)も、自著にこう記している。

「経済情勢は引き続き堅調に推移し、諸般の情勢から早々に公定歩合をさらに引き上げるべきであるということになった。(中略)引き上げるべきであること及びその引き上げ幅について格別の意見の相違はなかった。ただ、そのタイミングについては多少微妙なものがあった」(久保田勇夫『戦後レジームからの脱却を』)

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