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土地インフレに「劇薬」投与、すごく効いた総量規制 何かやらなければだめだ、銀行局OBが背中押す バブルの終わり⑤

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土田正顕・大蔵省銀行局長(左)と橋本龍太郎蔵相(1991年撮影)
土田正顕・大蔵省銀行局長(左)と橋本龍太郎蔵相(1991年撮影)(写真:毎日新聞社/アフロ)

平成2年目の1990年は、株価の崩落で始まった。暮れの大納会で最高値を更新した日経平均株価は初日から急落し、下げ幅は4カ月間で1万円を超えた。円も国債も売られ、円安・株安・債券安のトリプル安が続く。

だが、それでも日銀の引き締め意欲は衰えない。就任時の「白紙撤回事件」でつまずいた総裁の三重野康は、年明けに追加利上げの検討を指示した。三重野は「もういっぺん早く上げて(中立金利に)戻そうと思って年が改まってすぐいろんなところへ(部下を)走らせていた」とオーラルヒストリーで明かしている。

ただ、1月下旬に衆議院が解散されたことに加え、白紙撤回で敵役となった蔵相を気遣う大蔵官僚が、追加利上げの話を上げようとしなかったため、折衝は遅々として進まなかった。

「平成の鬼平」

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

大蔵省とのこうした対立構造は、奇妙なことに三重野には追い風となった。マスコミの“判官びいき”もあったが、ある評論家が池波正太郎の時代小説に引っかけて、三重野をバブル退治に奮闘する「平成の鬼平」と呼んだことが評判となり、三重野を支持する世論が徐々に形成されたのだ。

三重野は「褒められるとろくなことが起きない」と当惑していたが、この当時、バブル潰しを求める世論を意識していたことは国会でも明確に認めている。

「もちろんバブルの退治を横目に見るというか、十分視野に入れてやっております」(91年3月19日参議院予算委員会)

株式のバブルは破裂したが、地価上昇はなおも続いていた。

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