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「総需要の調整」狙う執念の引き締めがバブルを粉砕、意に反して地価は大暴落に バブルの終わり⑥

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三重野康・日銀総裁(1990年撮影)
バブル潰しを徹底した三重野康・日銀総裁(1990年撮影)(写真:共同)

日銀総裁の三重野康が1990年の年頭に命じた追加利上げの折衝は思うように進まなかった。前年暮れの白紙撤回事件でマスコミに批判された蔵相の橋本龍太郎を気遣い、大蔵官僚が利上げ案をなかなか具申しようとしなかったからだ。三重野は「前回引き上げ後なるべく早い機会に上げたいと思ったけれども(中略)やろうと思っても実現できなかった」とオーラルヒストリーで語る。

「中央値5%」という独自の物差し

三重野は当時、公定歩合について「中央値5%」という独自の物差しを持っていた。退任後に自費出版した『あるセントラルバンカーの半生記』にこう書いている。

「金利の上げがだいぶ遅れたので、中立的水準(私にとっては大体5%)まではなるべく早く戻し、その後の情勢の変化に即応しようと考えていた」

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

中央値とは景気を刺激しも冷やしもしない「中立金利」を指すとみられるが、なぜ5%なのか三重野は説明していない。オーラルヒストリーでも「(公定歩合が)いちばん高かったのが9%ですね。(中略)まあ5%ぐらいが真ん中じゃないかな」「理論的に言えと言われてもだめですね。かえって議論をややこしくする」などと、聞き手をけむに巻いている。

ある日銀OBは「90年代の潜在成長率の急低下とバブル崩壊のインパクトを考えると5%はいかにも高すぎた」と後に指摘しているが、当時そうした議論が行内で行われた形跡はない。

三重野が熱望する追加利上げが交渉のテーブルに乗ったのは90年3月に入ってからだった。

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