バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ

日本初のブランド紅茶「日東紅茶」との深い縁

こののち中国人商人による台湾での茶園開拓が進み、包種茶(パオチョンチャー)(わずかに発酵させた釜炒り茶)なども生産されるようになる。明治36年、台湾総督府は製茶試験場を開設。主に烏龍茶の製造法の改良と、紅茶の試作についての研究を行った。紅茶を開発した理由は、植民地政策ともかかわる。台湾でも緑茶(日本茶)が生産されていたのだが、緑茶は日本の重要な輸出品であり、国際市場での競合を避けるためにも、新たな商品開発の必要があったからだ。

台湾の紅茶製造は、総督府殖産局の意向に沿って起業された日本資本の企業(「日本台湾茶株式会社」「台湾拓殖製茶」など)が取り組んだが、品質は安定しなかったとされる。総督府は大正7年度より「茶業奨励十年計画」を実施し、製茶機械の貸付や技術の向上、人材育成に取り組んだ。

紅茶製造が大きく推進されたのは、「三井合名会社」(明治42年設立)農林課による。植林事業などを展開する同社は、大正10年ごろに直営で製茶を開始し、やがて紅茶製造に乗り出した。昭和2年、日本初のブランド紅茶「三井紅茶」(のちに「日東紅茶」に改称)を発売。11年には三井合名会社農林課を発展的に分離独立させ、「日東拓殖農林株式会社」を設立する。

1930~40年頃の、台湾第2工場「大豹工場」の様子。(写真:三井農林株式会社)

同社が台湾で所有した茶園は2000甲、また先述の台湾拓殖製茶(茶園4500甲)の受託経営も行った(のちに吸収合併)。台北仕上工場のほか、8つの工場を持ち、日東紅茶として日本国内で消費されたほか、米・英そのほか諸外国に輸出された。海外にも市場を広げることができたのは、インドのアッサム種の増殖などをし、品質が高く評価されたからだ。

台湾における茶の種別輸出額では、烏龍茶・包種茶にはるか及ばなかった紅茶が、昭和9年になると、両種を大きく引き離し、トップとなった。13年には、東京日比谷に庭園式ティーハウス「日東コーナーハウス」を開店。モボ・モガが集まり、日本に紅茶文化というべきものが芽生えた。戦後に、社名は「三井農林株式会社」に復し、国内での販売を再開。現在まで、日本で最古の紅茶ブランドとして引き継がれている。

台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いが生んだもの

さて最後に、台湾の樟脳が今日の化粧品原料生産へとつながったことを紹介したい。

明治7年、砂糖の輸入商として、鈴木岩治郎(初代)が神戸に創立したのが「鈴木商店」である。神戸の有力貿易商として発展していく中、19年に入店したのが金子直吉(当時20歳)である。鈴木商店は23年より樟脳の取り扱いを始め、金子を責任者にあてたのは、彼が土佐出身であることとかかわっている。

樟脳はクスノキを原料として製造されるもので、アラビアが起源とされる。6世紀ごろからヨーロッパで医薬・防虫剤としても使われた。16、7世紀ごろ日本に伝わり、薩摩藩の特産品として海外輸出もされた。さらに薩摩から土佐に伝わり、幕末には「土佐式製脳法」が生み出され、樟脳事業の振興が図られた。

次ページ樟脳の需要を大幅に拡大させたのは
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