バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ 日本初のブランド紅茶「日東紅茶」との深い縁
後藤は着任間もなく、三井財閥系など財界有力者を説得し、「台湾製糖」の設立(明治33年設立。35年、台南にて操業開始)を導いた。また、明治34年、同郷の新渡戸稲造(農学研究者、思想家)を招聘する。殖産局長に就任した新渡戸はジャワ糖業の視察に赴き、さらに台湾島内を踏査した結果を「糖業改良意見書」にまとめ、サトウキビの品種改良・製造・市場についての具体的方策を説いた。
これを受け入れた台湾総督府は、「台湾糖業奨励規則」(明治35年)を発布。苗や肥料の費用、開墾や灌漑にかかわる諸費用、精糖機械などの費用に対し、「奨励金」が下付され、製糖会社設立の機運が高まった。
明治37年から39年にかけて、台南塩水(イエンシュイ)港庁(当時)に、「鹽水(えんすい)港製糖」(現「塩水港精糖」)と「明治製糖」(現「大日本明治製糖」)が相次いで設立され、さらに先述の「大日本製糖」(平成8年「明治製糖」と合併)が台湾に進出するなどした。このほか、明治末までに「新興製糖」「新高製糖」「帝国製糖」などが設立され、内地資本の進出が加速していった。
サトウキビの作付面積と改良種の割合の推移を見てみる(「甲」は台湾の伝統的面積単位。1甲=ほぼ1ヘクタール)。
1万6526甲(改良種0.2パーセント)
8万9445甲(改良種93.4パーセント) (台湾総督府殖産局『台湾糖業統計』)
作付面積に比例して収穫高も約4.6倍の伸びを示した。台湾から日本へ移出された品目を金額(明治44年)で見ると、1位は砂糖(約72パーセント)で、2位の米(約15パーセント)を大きく引き離している。このようにして日本の庶民も甘味を楽しめるようになった。初期に設立された製糖会社が今日も存続していることは特筆すべきことだろう。
新たな商品開発から生まれた、紅茶製造への取り組み
砂糖についで台湾の特産品として挙げられるのは、茶である。私もつい最近、阿里山に広がる茶畑の美しさに目を奪われたばかりだ。土産に買った紅茶は味わいが濃く、香りもすばらしい。そういえば、「日東紅茶」は台湾との縁が深い。
台湾の茶の歴史はふるく、野生の茶樹を焙製し、飲料にしていたとされる。さらに清朝統治時代に中国本土より移民した人たちが、茶栽培を台湾各地で広範囲に展開し、相当量が中国へ輸出されるようになった。また樟脳(しょうのう)(後述)調査のため台湾にやって来た英国人が茶に注目し、商社と製茶場を設立。1869(明治2)年に米国ニューヨークに輸出したのが、台湾茶の国際市場登場となる。