バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ

日本初のブランド紅茶「日東紅茶」との深い縁

樟脳の需要を大幅に拡大させたのが、1870(明治2)年、米国人が実用化に成功した樟脳を原料とする合成樹脂「セルロイド」だ。日本からの輸出品として樟脳が注目される中、金子直吉は神戸を中心に事業を展開していった。

明治27年、鈴木商店創業者が没し、金子直吉らが経営にあたることとなり、翌年(台湾を領有した年)には早くも「小松組」(神戸の樟脳業者らとの同業組織)を組織して台湾進出を果たす。金子はすでに樟脳油から得られる再製樟脳や樟脳副産油に着目し、販売権獲得を視野に入れていた。

後藤新平(1857~1929年)官僚、政治家。後藤新平の台湾での近代化政策は、「生物学の原則に従う」という考えにのっとり、台湾の慣習に基づいた施策を立てるというものだった(提供・国立国会図書館)

一方台湾では、明朝末から鄭氏政権時代に製脳業が伝わったと推定されている。台湾総督府は当初、製脳業を総督府の許可事業とし、新規参入を認めなかった。しかし、製脳技術者松田茂太郎(のちに鈴木商店〔明治35年、合名会社に改組〕に入社し、樟脳関連事業すべてに関与した)の提言を受け、明治32年に総督府は台湾樟脳専売制度を導入した。この時期に金子直吉は後藤新平との関係を深めていったとされる。

鈴木商店は、明治32年に台湾樟脳油の販売権の65パーセントを得て、その翌年「直営樟脳製造所」(神戸)を設立。製造業にも乗り出し、セルロイドや人絹など、事業の多角化を図り、大躍進していった。さらには薄荷(ハッカ)・塩・煙草事業にも参入、製糖会社を設立・買収するなどした。また第1次世界大戦勃発(大正3年)を機に、鉄鋼・造船など重化学工業にも進出した。大正6年の売上高は15億4000万円に達し、「三井物産」を大きく凌ぐほどの勢いを見せた。

鈴木商店は破綻したが…

しかし昭和2年、「昭和金融恐慌」が起こった。鈴木商店のメインバンクである台湾銀行との関係は樟脳ビジネスの展開から始まっており、同銀行の鈴木商店への融資総額は融資残高の5割を占めるほどだった。こうした融資の偏りが台湾銀行の存立を危うくさせ、ついに鈴木商店との絶縁を宣言。これにより鈴木商店は破綻に至った。

関係会社は売却・解散・整理などされたが、自主再建を果たした会社も少なくない。鈴木商店の流れを汲み、さらに発展していった企業は、商社「双日」、神戸製鋼所・帝人・太陽鉱工など、あまたにのぼる。

中でも台湾進出の突破口となった樟脳事業から発展した企業が「日本精化」と「日本香料薬品」である。前者は化粧品の原料など、後者は食品香料などを中心に生産している。その技術の源流をさかのぼれば、台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いにあったといえるだろう。

台湾と日本。これからもよき関係を育んでいきたい。

(文/与那原恵)

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