私は中学、高校に行っていません。小学校は慶應幼稚舎ですが、5年生のときに肺結核にかかり、病欠となって一応は卒業させてもらいましたが、あとは学校へ行けず、自宅や療養所で養生生活です。
戦後しばらくまで結核は不治の病と呼ばれていました。さらに悪いことに私のは粟粒(ぞくりゅう)結核といって、小さな病巣が肺いっぱいに広がり、手術ができない。16歳のときには医師から「治る見込みがない」と見放されてしまいました。
しかし奇跡が起こりました。特効薬ストレプトマイシンが療養所に配給されたのです。しかも二人分だけ。療養所の医師からすれば病状が深刻だった私に、実験的に投与したのでしょう。今ではちょっと考えられないくらいの量の注射を打たれました。それから一進一退を繰り返しながらも少しずつ快方に向かい、療養所を出たときには、23歳になっていました。独学で大検資格を取り、慶應大学に入学しました。
「他人は他人、自分は自分」
神奈川県秦野にある療養所には6年間いました。とにかくじっとしているほかなかった。重症の頃には本もラジオも禁止の絶対安静で、寝ているしかない。小学校も途中で欠席がちになったし、疎開に続く療養生活で友達とは音信不通の状態でした。それに病人の姿で会いたくもなかったのです。
病気が私に何をもたらしたか。いちばん大きなプラス面を言えば、それは後になってやっとわかったことですが、挫折感を味わったことです。同級生たちは中学、高校、大学に行き、就職していく。それなのにこちらは療養所でごろごろしている。じたばたしても仕方ないことはわかっていましたが、何とも言いようのない深い挫折感でした。
「エゴイストになれ」。これは療養所の先輩に言われた言葉で、今もよく覚えています。親に迷惑をかけているなんて思わずに、とにかく病気を治すことだけに専念しろ。あれこれ悩むのではなく無神経なエゴイストになって、自分のことだけ考えろ、という意味です。それで救われたというほど、事は単純ではないのですが、この言葉は心に突き刺さりました。「他人は他人、自分は自分」と割り切ることも大事だと納得しました。
私には神経質なところと無神経さが同居しています。若い頃の経験も関係しているのかもしれませんが、無頓着な面もあります。今から振り返ると社長時代にはぞっとするようなこともあって大変でしたが、何とかやってこられました。
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