【福澤武氏・講演】日本企業文化へのパラダイム転換(その1)
東洋経済新報社主催フォーラム
「理念重視型経営が創る成長基盤とリスク管理」より
講師:福澤武
08年9月10日 ロイヤルパークホテル(東京)
●グローバリゼーションという黒船
福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と言っています。彼は明治維新前と維新後のコペルニクス的転回をしたような世の中を経験したわけですね。だから一つの身で以って二人分の生涯を経験したようなものだと、こう言っているのですが、私は「一身にして三生を経験した」と思っています。これは戦前と戦後、日本の社会はまさに明治維新に匹敵するような大変化をしたわけですね。そして今また、第三の開国期と言われているように非常に大きな変化の時代に入っています。日本の社会は戦後、欧米に追いつけ追い越せということで、必死になって働きました。古い話で恐縮なのですが、戦時中の日本というのは「一億一身」だとか、「進め、一億火の玉だ」「撃ちてし止まむ」などと標語が掲げられて、国民が唱えていた時代です。
ところが戦後の企業戦士、このときは欧米に追いつけ追い越せなんていうことが掲げられていたわけではないのですが、何となく暗黙のうちにみんながそういう気分になって、実際には日本人の精神構造は戦時中とあまり変わってなかったのではないかと思います。もう「進め、一億火の玉だ」というような感じで、企業戦士は遮二無二突進したわけですよ。
そして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われ、それまで先生と仰いでいろいろ教えを受けていたアメリカの経営者たちが、日本的システムに学ぼうとやって来たわけです。それで日本はすっかり有頂天になってしまったのですね。もはや欧米に学ぶことは無いなどと言って、日本的システムでやっていけば間違いないのだと。これを金科玉条としてしまったわけです。世界に対して目を向けることを忘れて、精神的に鎖国状態になったのだと思います。
「第三の開国」と言ったのは、慶應義塾元塾長の石川忠雄さんだと思いますが、鎖国していたわけではないのに、なぜ「第三の開国」などと言うのかと私は疑問に思っていました。1996年の正月に石川さんと話をしたときに、「第一の開国期の明治維新は、これは明らかに世の中が大きく変わったことが誰の目にも見えた。それから第二の開国期が敗戦で、これも誰の目にもそれが見えた。しかし第三の開国期という現在は、これがはっきり見えないのだ」と伺いました。
日本は、第一の開国期の前は鎖国政策を取っていました。第二の開国期の前は、戦時中でいわば鎖国状態だったわけですね。ところが第三の開国期のときにはもう世界中と活発に交流していたわけですよ。しかし精神的に鎖国状態になって、世界が見えていなかった。そしてバブルがどんどん膨らんでいく状況が、1990年ぐらいまで続いたわけですね。そしてバブルが弾けました。そこで初めて世界に目を向けたら、グローバリゼーションという黒船が来ていたのです。第一の開国のときは、アメリカのペリーがやってきた。第二の開国は主な敵のアメリカにやられた。第三の開国もグローバリゼーションと言いますが、結局はアメリカナイゼーションですね。これもやはりアメリカです。
つまり、日本はアメリカによって三回開国を迫られたわけですが、バブルが弾けて戦後の日本的システムではもうダメだということは、みんなが感じていたとは思います。私は「戦後日本のアンシャンレジーム」とフランス革命のころの言葉を借用して言っていました。その後、安倍内閣も「戦後レジーム」という言葉を使っていましたが、その戦後日本のアンシャンレジームが明らかに崩壊したと感じたのは、1997年の秋です。
(その2に続く、全7回))
福澤武(ふくざわ・たけし)
慶應義塾大学法学部卒業後、1994年より三菱地所株式会社・取締役社長、2001年より同取締役会長、2007年より取締役相談役を経て現職。同相談役を務める傍ら、大手町・丸の内・有楽町地区再開発計画推進協議会会長、千代田区教育委員、日本アスペン研究所理事など幅広く活動。著書に『「丸の内」経済学』(PHP研究所)など。
慶應義塾大学法学部卒業後、1994年より三菱地所株式会社・取締役社長、2001年より同取締役会長、2007年より取締役相談役を経て現職。同相談役を務める傍ら、大手町・丸の内・有楽町地区再開発計画推進協議会会長、千代田区教育委員、日本アスペン研究所理事など幅広く活動。著書に『「丸の内」経済学』(PHP研究所)など。
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