重源は、その信仰心と人徳と才覚により、資金調達のみならず、企画からチーム作り、制作、プロモーション、完成披露まで、すべてをやり遂げます。大仏造営には当時の中国で最先端の技術を自ら学び、さらに一流の職人をヘッドハンティングしてきて、事業を率いさせたといいます。技術研究も人材探しも、本当にグローバルです。
プロモーションも、ユニークでした。プロジェクトの情報が一般向けにリリースされると、重源はさっそく台車を作り、左右に再建のコンセプトと勧進趣意書を貼り、重源みずからこの車に乗って、勧進キャラバン全国キャンペーンを展開しました。しかも、キャンペーン後期には重源が自分自身「南無阿弥陀仏」と名乗るまでにヒートアップ。おカネを集めながら宣伝も兼ね、ファンも作るという、まさに当時からクラウドファンディングを先駆けていたわけです。
もちろん重源は、この難プロジェクトを軽やかに成功へと導きました。ついたあだ名は、「支度第一の重源」。「恐ろしく仕事ができる僧」という意味ですね。一度でいいからそんなふうに言われてみたいものです。
本来お坊さんはソーシャルな生き物
さて、重源さんを「ソーシャルなお坊さん」の代表として取り上げた私ですが、ちょっと違和感も残ります。なぜかって、お坊さんは誰でも、本来、ソーシャルな生き物だからです。
確かに重源さんは当時の大きな社会課題に、目に見えやすいかたちで取り組みました。今でこそ、お寺の住職が「うちのお寺にも鐘楼(鐘つき堂)が欲しいから寄付を集めたい」と言ったら、「そんなもん勝手に自分で建てろ」と突っ込まれそうですが、当時は大仏を建てること自体が公益性の高い事業、つまり実現されればみんなが喜ぶ事業として社会に受け止められていたのです。重源さんは今で言うソーシャルアントレプレナー、社会起業家であったという意味で、ソーシャルなお坊さんの代表格です。
でも、そういったわかりやすい目に見える成果がなくても、昔の偉いお坊さんはだいたいソーシャルです。たとえば法然さんや親鸞さんだって、大仏を建てたりはしていませんが、地べたにはいつくばって必死に生きる民衆こそが仏教の救いの目当てであると、当時としては画期的な念仏の教えを広めました。今ふうに言えば、仏教のソーシャルイノベーションです。
大仏を建てたり、橋を作ったり、病院を開いたり――といった目に見える社会貢献もすばらしいですが、宗教そのもので人を救うのもすごいことです。
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