志は壮大なものであるべき?
志=こころざし。
あなたはこの言葉から何を思い浮かべますか?
『志を育てる』(グロービス経営大学院・田久保善彦教授著)という本があります。
志という極めて言語化しにくい概念について、多くのビジネスリーダーたちへのインタビューから丁寧に分析し、志がつくられるメカニズムを明らかにした、非常に興味深い内容です。
私も仏道を歩むうえで「志」について考えることは多いのですが、それを理論化しようと試みたことはありませんでしたし、理論化できるようなものであるとも思いませんでした。
しかし、この本を読んでみて、「志」概念についての自分の感覚を理論が裏付けてくれるところが大いにありましたので、仏道の視点から少し書いてみたいと思います。
志について質問すると、十人十色の答えがあります。自分の生きる証し、存在意義、生きる意味といった、自分の存在価値を示す意味合いから、絶対に成し遂げるという思い、心からやりたいと思えることといった、心の満足を表す意味合いまで、いろいろなものが出てきます。
どちらにしても、私たちはふつう「志」という言葉を、たとえば「今日こそ絶対にバーゲンセールへ買い物に行くんだと志を立てる」というふうには使いません。買い物をすることが生きる意味にはなりませんし、買い物で一時的に満たされる程度の心の満足を言うわけではありませんね。「現代の志塾」を理念とする多摩大学初代学長の野田一夫は「志とは壮大なものであり、人に感動を与えるものであり、成すことを事前に意思決定するものである」という言葉を残していますが、私たちが「志」という言葉から喚起されるイメージも、そういう壮大さがあると思います。
しかし、意外なことに本書では、そのような「志」概念のそのような壮大さを十分に踏まえながらも、あえてその意味を「一定の期間、人生をかけてコミットできるようなこと(目標)」としています。どうでしょう。「人生をかけてコミット」というのはいいとして、「一定の期間」というただし書きがつくことによって、「志」概念がずいぶん矮小化されてしまう感じがしませんか? 志というのは、もっと壮大なものであるべきなのでは? そういうふうに感じるのがむしろ自然ではないかと思います。
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