有森裕子と松野明美、因縁の選考で秘めた胸中 バルセロナ五輪マラソン代表争いを振り返る
有森の努力がようやく花開いたのは、1991年1月27日、大阪国際女子マラソンでのことだった。2位でゴールした有森のタイムは、2時間28分01秒。なんと、当時の日本最高記録だった。有森は一躍、日本陸上界期待の星となった。
大阪国際女子マラソンから1週間後の2月、沖縄の合同合宿で有森と松野は再び顔を合わせた。1年前の熊本での合同合宿とは、状況が大きく変わっていた。
他の選手たちの憧れの対象は、松野から有森へと移っていたのだ。
ふたりの間に火花が散り始めたのは、このころからだった。
バルセロナ五輪を巡る壮絶な争い
「彼女(松野)は、マラソンを走れば自分のほうが絶対に強いという自信を持っていたような気がするんです。あのとき、私は彼女と一緒に練習していないんです。避けられていました……」
合同合宿中、体調がすぐれずに軽めのメニューをこなす有森を目にした松野は、こう感じたという。
「あれだけしか練習していない有森さんが、なんでこんな結果を出せるんだろう、どこで練習しているんだろう、という思いがでてきて。なんかずるいなと感じてしまいました」
立場が変わりつつあったふたりの目標は、半年後の世界陸上東京大会。松野は10000メートルでの出場が濃厚だと考えられていたが、松野自身はマラソンへの転向を考えていた。
「10000メートルでは3年間くらい、日本人に負けたことがなかったんです。その自信もありましたし、フルマラソンでは小柄な体格を生かすことができると。練習量では世界一という自信があったんです」
松野は、岡田正裕(おかだ・まさひろ)監督にマラソンでの出場を打診した。しかし、岡田監督は「10000メートルで挑戦してくれ」と反対し、松野は断念せざるをえなかった。
「陸連(日本陸上競技連盟)から、『待ってくれ』と言われました。東京開催の世界選手権の成功、不成功のカギは、『グラウンドにどれだけ人を集めるか』だと。松野が10000メートルを走ることによって、人が集まる可能性が出てくると」
それぞれの思惑が交錯する中、1991年8月25日、世界陸上東京大会女子マラソンが行われた。このレースは1年後に迫ったバルセロナ五輪の代表選考も兼ねていた。気温25度を超える過酷なレースとなった。日本人1位、総合2位でゴールしたのは、山下佐知子(やました・さちこ)。有森は4位でのゴールを果たし、日本陸上競技連盟から高評価を受けた。
故障上がりだった松野は10000メートルでよもやの予選敗退。その後、翌9月に松野はマラソンへの転向を決断した。「やっと走れる。絶対五輪に出る」と意気込む一方で、世界陸上で不本意な結果に終わった、やりきれない思いの矛先は有森に向けられることになった。
「なんでいいところばかり持っていくの……という悔しさがありました。悪いことだとは思いつつも、だんだん憎しみみたいなものに変わってしまうんですよね」
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