有森裕子と松野明美、因縁の選考で秘めた胸中 バルセロナ五輪マラソン代表争いを振り返る
世界陸上2位の山下はバルセロナ五輪内定。残る2つの代表枠を争う選考レースは、1991年11月の東京、1992年1月の大阪、3月の名古屋を残すのみとなり、松野の有森へのライバル心はさらに加速していく。
松野が選考レースに選んだのは、1月の大阪国際女子マラソンだった。くしくも、1年前に有森が日本最高記録を出した大会だった。
「あの人(有森)には負けない。苦しみはこのレースで出しきろうという覚悟がありました」
有森も大阪国際女子マラソンへの出場を考えていた。しかし、前年10月の合宿中に故障。欠場を余儀なくされた。
1992年1月26日、大阪国際女子マラソン。有森が欠場したこの大会で、松野は驚異的な走りを見せる。しかし、五輪出場を当確にしたのは、誰も予想していない別の選手だった。
「25キロメートル地点で集団のペースがアップしたんです。でも私は自重して。終盤にペースアップするイメージを描いていましたから、ひとりずつ追い抜きました。ただ、前にもうひとりいるんですね。縮まるはずの距離がなかなか縮まらない。『あの選手は誰?』と思いました」
小鴨の登場で有森と松野の争いはさらに熾烈に
集団を引き離した松野は2位でゴール。1年前の有森を59秒上回る、2時間27分02秒の記録を出した。松野が追いつけなった相手は、小鴨由水(こかも・ゆみ)。当時まったく無名の存在ながら、2時間26分26秒の日本記録を打ち出したのだ。小鴨が代表有力になったことで、残る1枠を巡る有森と松野の争いは、さらに熾烈を極めることになった。
レースを見ていた有森はショックを受けたと語る。
「よりによって、2人に記録を破られましたからね。(松野は)絶対強いという自信をすごく持っていたのは知っていましたし、そのとおりの力を出したから、完敗でしたね」
しかし、有森が悲観的になることはなかった。当時の日記には次のように生々しく記している。
有森は3月の名古屋国際女子マラソンの出場に向けて、準備を進めていた。しかし、小出監督は出場を見送るよう、有森に伝えたのだ。
「僕は名古屋で走らせちゃったら、もう五輪出場はないって思ったから。走らないほうがいい。(五輪までのレース)間隔の問題もあるし。もし欠点をうんと見せてしまったら、もう選ばれないなと」
小出監督の助言を受けて、有森は名古屋国際女子マラソンの出場を見送った。その大会では日本人選手が優勝したものの、突出したタイムが出ずに、内定とはならなかった。これで残り1枠は有森と松野に絞られた。世間のムードはタイムで上回る松野が優勢。それは有森の耳にも届いていた。
松野も自分が選考されると確信していた。
「たまたま見た新聞で、『有森か松野か』って見出しがあって、『どうして?』という思いがあったんですよね。(有森は)世界陸上だけしか走っていないし、選考では怪我してたじゃないって」
有森は世界陸上後の1991年9月から1992年2月まで、半年間マラソンを走っていなかった。しかし、バルセロナ五輪も猛暑が予想されたため、猛暑の世界陸上で4位という実績は、依然高評価だった。怪我を完治させた有森は、3月15日に岡山、3月20日に千葉で10キロメートルマラソンを走り、健在ぶりをアピールした。有森は「本気で出たいという気持ちを表現することが、見せるべき態度だと思った」と語る。
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