有森裕子と松野明美、因縁の選考で秘めた胸中 バルセロナ五輪マラソン代表争いを振り返る
バルセロナ五輪女子マラソン日本代表発表の2日前の1992年3月26日、松野が異例の記者会見を開いた。
「私が出たら、確実にメダルを獲れると思っています。そのためにも精いっぱい頑張っているのでどうぞ選んでください」
日本陸上競技連盟に向けて、会見の場でアピールしたのだ。
これについて、有森は後にインタビューでこう語っている。
「私も松野さんもぜんぜん悪いことをしていません。お互いにそれぞれが持っている情報の中で、状況に対する思いを表現しただけなので」
そして2日後、代表が発表された。選ばれたのは、世界陸上2位の山下、大阪国際女子マラソンで優勝した小鴨、そして有森だった。本来なら手放しで喜んでいいはずだが、有森は複雑な心境だった。
「困ったのは、喜んでいいのかどうなのかがわからなかったことです。だから笑わなかったです」
有森の選考理由を、日本陸上競技連盟バルセロナ五輪強化本部長、故・小掛照二(こがけ・てるじ)氏は次のように説明した。
「バルセロナは30度を超す暑さですから、暑さに強い選手を。それから世界選手権という大変なプレッシャーでも堂々と戦えるような選手ですね。誰を選んだら目標のメダルが獲得できるのかということに集中しました」
猛暑に耐えうる身体の強さと、世界大会でも物怖じしない精神の強さ。その両方をクリアした世界陸上4位という有森の成績は、大いに評価されたのだった。
発表後の会見で、有森が松野の名前を出すことはなかった。
「語る必要がないと思いました。申し訳ないとは思っていないです。私がこの件で彼女のことを思うコメントをしたり、申し訳なかったの一言を言おうものなら、これほど失礼なことはないと思っています」
そんな有森に、松野優勢ムードをひっくり返された世間は冷たかった。有森の実家には嫌がらせの手紙や電話が届いた。しかし、有森は「悪いことはしていないですから」と平常心を保ち続けた。
女子マラソン史上初の銀メダルを獲得した有森
迎えた8月のバルセロナ五輪は気温30度を超える過酷なレースとなった。大阪国際女子マラソンで日本記録を更新した小鴨が、早々に先頭集団から抜け出すも、徐々にペースが落ちてしまう。
中盤以降は、有森とロシアのワレンティナ・エゴロワのデッドヒートとなった。残り1キロメートルでスパートをかけたエゴロワが有森を引き離し、そのままゴール。有森は金メダルこそ獲れなかったものの、女子マラソン日本人初の銀メダルを獲得した。
日本中が歓喜に沸く一方で、レース中継を見ていた松野は、自分だったら金メダルを獲れたと思わずにはいられなかった。
「バルセロナ五輪のフルマラソンは走りたかったです。本当に走りたかった」
有森と松野は、代表選考以来一度も顔を合わせることはなかった。
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