有森裕子と松野明美、因縁の選考で秘めた胸中 バルセロナ五輪マラソン代表争いを振り返る
1992年バルセロナ五輪、女子マラソンで日本人初の銀メダルを獲得。1996年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得した有森裕子(ありもり・ゆうこ)。輝かしい成績を残した一方で、実はバルセロナ五輪の代表選考を巡り、ある大騒動が起きていた。目標にしてきた五輪出場が決定したにもかかわらず、有森が手放しに喜べなかった理由とは……。
有森裕子と松野明美の出会い
「見返してやりたかったというか。それが自分を奮いたたせる力になっていました」
有森裕子は、そう強く言い放った。その相手とは誰だったのか。実は有森は、学生時代は有名なランナーではなかった。高校1年から大学4年までの7年間、陸上部に所属するも補欠の日々が続いた。その後は実業団で競技を続けたが、目立った結果を残すことができずにいた。
有森の努力が開花するよりも前、1987年のことだ。女子陸上界に突如として19歳のヒロインが登場した。その名は、松野明美(まつの・あけみ)。
松野は同年10月に沖縄国体5000メートルで優勝を果たすと、翌年には兵庫リレーカーニバル10000メートルで優勝、日本陸上競技選手権大会10000メートルでも優勝と、快進撃を続けた。1988年に開催されたソウル五輪には10000メートルの代表として出場。32分19秒57の好タイムで、日本新記録を樹立した。
ふたりの出会いは、1989年10月の熊本での合同合宿のことだった。有森が22歳、松野が21歳のときだ。スター選手だった松野はみんなの憧れの的だったが、実績がない有森はエリートランナーへの反骨心をむき出しにしていたという。
有森の反骨心を見抜いたのは、故・小出義雄(こいで・よしお)監督。有森の才能を引き出した名将はこう語っていた。
「物事は全部真剣勝負なんですよ。自分のできることをギリギリまでやる。見栄とかそんなものは何もない」
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