「ガンダム」安彦作品が描き出す人間たちの実像 アニメ文化はアジアを救うカギとなる
杉田:確かに安彦さんもそうで、あがいてあがいて、もがいてもがいて、という人間たちを描いています。それはきっと魯迅の「掙扎(そうさつ)」とか、竹内好の「抵抗」とか、武田泰淳の「我慢」に重なってくる。
そして民族や歴史の中でもがき続けている人間同士がたまたま一緒になって、そこに一瞬アナーキーな人間関係が生まれたり、ある種のトポス(居場所)やパトリ(愛郷心)みたいなものが形作られていく。それを政治家の石橋湛山の「小日本主義」にならって、「大アジア主義」ならぬ「小さなアジア主義」と名付けてみたい気もします。
そういうことを言えばやはり安彦さんは、「いや、そんなたいそうなもんじゃない」と否定するでしょうけれども……。
中島:思い出したのは、評論家の鶴見俊輔さんのことです。鶴見さんに僕が直接言われたのは「あなたは負けてる人を書いてるからいい」と。「勝っている人間を書いてどうするんだ。歴史に残るのは明らかに負けた人間のエトスのほうだ」と。負けた人間のあらがいや葛藤のなかにこそ、その先の時代に残るような重要なものが宿る。鶴見さんはだから竹内好にもこだわったんだと思う。
杉田:いわゆる「負けたからこそ美しいんだ」というような「敗者のロマン主義」にも決していかないわけですね。敗北のロマンすら回収できないような、ぶざまな負け方があって、しかもそれが歴史の面白さになっていく。そこは確かに、中島さんの感覚と似ている気がします。
アジアの連帯の可能性
杉田:僕も中島さんのアジア主義論などを読みながら、やっぱり国民作家としての宮崎駿じゃなくて、アジア作家としての宮崎駿、アジア作家としての安彦良和をもう1回考え直したい、と思うようになりました。
しかしアジア主義という理念がある一方で、「帝国」化していくアジア的専制(ディスポティズム)という問題もありますね。現在の日本や中国、あるいはフィリピンなどの現状を見ると、そうしたアジア的な闇というか根深さを感じざるをえません。
とくに天安門事件以降、現実の中国は見ているかぎり帝国化していると言わざるをえない。だからアメリカと中国という二大帝国の狭間で日本はどうするか。「アメリカの影」とか「対米従属」という問題意識だけだと、死角が出てくると思います。アジア主義という言葉にはすごく惹かれますが、同時にそういう危うい側面もあるのかなと。