「ガンダム」安彦作品が描き出す人間たちの実像 アニメ文化はアジアを救うカギとなる
中島:そうかもしれない。だからジブリ作品のなかで、小さなところで着地するタイプか、あるいは、物語の増築に次ぐ増築みたいなタイプ。僕はその2つの方向性が好きなのかもしれない。大きなメッセージ性や強い審級があるようなものは苦手です。『もののけ姫』は、観念が先に立っている気がする。
杉田:サブカル的なトポスというものは、大きな物語ではなくって、小さな物語を継ぎ足しながら、増築を繰り返して、なんとかうまく欲望を暴走させない方向に取りまとめていく、という感じかもしれない。
安彦作品が描く人々
中島:安彦さんは「これこそ正しい理念だ、歴史はこちらへ進むべきだ」なんてことは、絶対に言わない。
「自分でも、これはいったい何だったんだろう」という物語を描きながら、他方では、今の若者たちは前向きな理念が持てていない、と言っていますね。この辺りの微妙な感じが面白い。言わないんだけれど、何らかの大きな物語や理念に向けて、一生懸命生きようとする人間たち。そういう人々の姿を共感を込めて肯定的に描いてもいます。
杉田:確かに主人公たちはみんなそうですね。ある種の純粋な理想に憧れながら、しかし結局それを目指すとどんどん暗中模索になって、蛇行して失敗して……みたいな、そういうタイプ。
中島:けど、その中で具体的な人との交わりのなかで信頼が生まれたり、満洲の建国大学のような空白のユートピアみたいなものがふっと生まれる。それが安彦さんのアナキズム的な感性なのでしょう。
杉田:例えば『天の血脈』では、特別な才能もない無名の主人公のまわりに、いろんな国や民族の人間たちが自然に集まって、あたかもその場に「小さなアジア主義」のような協働関係が形成されていく。『ファーストガンダム』のホワイトベースもそういう感じです。あれは民間人や戦災孤児たちが寄せ集められた、ほとんど難破船というか難民船のような感じですよね。
中島:『秋葉原事件』を書いたときに「この本には結論がないじゃないか」とすごく言われたんです。でも、僕は最初からそういう結論なんてものは書きたくないから、対象に寄り添うような書き方をしたんですよね。そういう書き方じゃないと、こぼれ落ちてしまうものがいっぱいある。社会学者もどきをやりたいわけじゃない。それは『中村屋のボース』のときと同じです。