「そこからのオチが決まらなかったんです。悩んでいると、当時アパートで共同生活をしていた友人に『蔵六を辞書で調べてみたら?』と言われたんです。
『蔵六は俺が決めた名前なのに、載ってるわけないじゃないか?』と思いながらも『広辞苑』で調べてみました。そうしたらなんと載っていました。『古語で亀の意』と書いてありました。蔵(甲羅)の中に手足頭尻尾の6つをしまうから、蔵六なんですね。運命を感じました。『奇病でどうしようもなくなってしまった蔵六の体が、七色の甲羅で身を包んだ巨大な亀になる』という展開にすることにしました」
そして完成したのが『蔵六の奇病』だった。
最初は300枚のボリュームになったものを、32枚に絞って持ち込むことにした。
まずは秋田書店に持ち込んだが「グロテスクすぎる」という理由で断られた。続けて、少年画報(少年画報社)に持ち込むと、大学を出たての新人編集者に「おもしろいので、預からせてほしい」と言われた。
いったんはやはりグロテスクすぎるという理由で断られたのだが、編集長が替わったタイミングで掲載されることになった。
「編集部に行くと、編集さんたちが集まってきてそれぞれがいろんな意見を言いました」
結果的に2色にすることになったのだが、色を塗ったこともなかったため大変苦労した。しかし苦労したかいがあり、とてもインパクトのある作品になった。
少年サンデーは日野さんの物語に魅了された
「まだ少年画報が発売される前に、少年サンデーと少年マガジンから執筆依頼の電話がありました。おそらく印刷所で製本段階の作品を目にしたんだと思います。
ただ『蔵六の奇病』を1年がかりで描きあげたところでしたから、そんなに何本も仕事を受けられません。いったんは断わるしかありませんでした。マガジンとの縁はそれきりでしたが、サンデーは家にまで来て『ファンなんだから描いてくれ』って何度もお願いされて、結果的に作品を描くことになりました」
少年画報では連載が始まった。サブタイトルには「日野日出志ショッキングワールド」とついた。
「俺はグロテスクが描きたかったわけではないんですが、『ショッキング』というタイトルを見て何を求められているのかがわかりました。言葉に引っ張られる形で、より刺激的な漫画になっていきました。そうして『地獄の子守唄』が産まれました」
『地獄の子守唄』は作者、日野日出志が読者に話しかける形で展開する。
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