伝説の怪奇漫画家が歩んできた退屈しない人生

73歳の今もなお新作の制作に意欲を燃やす

1945年の8月に日本は第2次世界大戦に敗戦した。両親も日本へ引き上げなければならなくなったが、残務処理で最後までチチハル市に残ることになってしまった。

そんな慌ただしい1946年の4月に日野さんは誕生した。

「そんな大変なときによく産んだな、と思いますね(笑)。残務処理が終わった後には、赤ちゃんの俺を連れて鉄道で引き上げることになりました」

満州での誕生から日本に帰郷するまでを語ってくださる日野さん。仕事部屋にて(筆者撮影)

日野さんたちが乗り込んだ車両は石炭を載せる天井のない無蓋車だった。そこにギュウギュウ詰めに乗り込み、3~4日昼夜構わずに走り続ける。石炭を燃やした風がたなびいて乗客は黒くなる。満州の10月末は零下10~20度まで冷え込んだ。

今からでは想像できないくらい過酷な旅路だ。

「知り合いの中国人には『日本まで無事に連れて帰れるわけないんだから、置いていけ』って言われたらしいです。実際に汽車で亡くなった子どももいたそうです。両親も悩んだそうです。もしそのときに中国に、置いていかれたら残留孤児になっていました」

長旅の末、群馬の祖母の家に帰郷

日野さんは両親と共に日本へ帰ってきた。母親の故郷である群馬県に身を寄せた。

「祖父母は両親に1年以上連絡をとることができず、内心『満州はひどい状態だというから、もう生きてはいないだろう』と思っていたそうです」

そんなある日、祖母が出窓から外を見ていると、ヒゲボウボウで汚い身なりの男女が歩いているのが見えた。

「『かわいそうに……』と思って見ていたら2人は家に近づいてくる。顔をよく見たら自分の娘で、ずいぶん驚いたそうです」

両親はやっと実家にたどり着いた安心感から、ヘタヘタと倒れ込んでしまった。祖母は、娘が背負う赤ちゃんの日野さんを見て喜び、ずいぶんかわいがってくれたという。

日野さんが1歳の頃、家族は父親の親類をたどって上京した。父親は板金の腕を生かし、バケツを作ってその日のうちに売りにいった。物がない時代だったので、飛ぶように売れた。

「その頃から記憶がありますね。バケツの縁に飾りをつける機械で遊んだのを覚えてます。父親には『まだ弟が生まれる前だよ、よく覚えてるな』って言われましたけど、覚えてるものは仕方がないですね(笑)」

その後、いったん群馬に引っ越したが、小学校に入学するタイミングで再び東京に戻ってきた。そして中野の江古田小学校に進学した。

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